方広寺
方広寺(ほうこうじ) 2008年05月16日訪問
豊国神社の鳥居と唐門を結ぶ参道の途中から北側に歩いていくと方広寺の境内へ入って行く。どこまでが豊国神社でどこからが方広寺かが良く分からない。豊国神社の鳥居と唐門を結ぶ参道の途中から北側に歩いていくと方広寺の境内へ入って行く。どこまでが豊国神社でどこからが方広寺かが良く分からない。の鳥居と唐門を結ぶ参道の途中から北側に歩いていくと方広寺の境内へ入って行く。どこまでが豊国神社でどこからが方広寺かが良く分からない。
方広寺は天台宗山門派の寺院で文禄4年(1595)豊臣秀吉によって創建されている。方広寺の歴史は豊臣家の大仏造営の歴史でもある。天正14年(1586)秀吉は奈良の東大寺に倣って、京の地に大仏の建立を計画した。既に永禄10年(1567)松永久秀が引き起こした東大寺大仏殿の戦いの兵火により東大寺大仏殿は平重衡の時以来二度目の焼失に遭い、大仏も頭部を失っている。当時より補修も行われたが、戦国の争乱で十分な資金も集まらず、大仏殿には手がつかず頭部を銅板で仮補修した程度で雨ざらしのままであったようだ。本格的な修復は貞享元年(1685)公慶上人が、大仏再興のための勧進の許可を徳川幕府から得てからのことで、元禄4年(1691)大仏の完成、翌年に開眼供養、宝永6年(1709)大仏殿の落慶まで待たねばならない。つまり方広寺の造営は奈良で失われた大仏を京都に再現することでもあった。
豊臣時代から徳川時代の中期にかけて3代の大仏が造営され、天保年間に再建された4代目は昭和の後期まで存続していた。
天正14年(1586)の造営着手により、文禄4年(1595)大仏殿の完成を見ている。その規模は、南北約88メートル、東西約54メートル、高さ約49メートルと、現存する東大寺の大仏殿(幅58メートル、奥行き51メートル、高さ49メートル)と比較しても、さらに巨大なものであった。創建当時の東大寺大仏殿の幅は現在の約1.5倍であったと推定されているので、その奈良の大仏殿と同じ規模で京都も造られていることが分る。
また仏像も高さ約19メートルの木製金漆塗坐像大仏が安置されることとなっていた。これは現存の奈良の大仏の高さ14.9メートルと比較するべくもないほどの大きさである。奈良の大仏には創建当時の台座が残っていることから、鎌倉時代から江戸時代にかけて補修は行われているものの縮小して再興したとは考え難い。
この巨大な京の大仏は、開眼前の慶長元年(1596)に起きた大地震により倒壊する。慶長伏見地震と呼ばれる大地震は、特に三条から伏見にかけて最も大な被害を出した。京都や堺で死者合計1000人以上、伏見城の天守閣や石垣が損壊させている。大な被害を出した。京都や堺で死者合計1000人以上、伏見城の天守閣や石垣が損壊させている。を出した。京都や堺で死者合計1000人以上、伏見城の天守閣や石垣が損壊させている。 そして慶長3年(1598)秀吉は法要を待たずに死去し、同年、大仏の無い大仏殿で開眼法要が行われる。当時の方広寺の境内は、現在の方広寺境内に収まらず、豊国神社から京都国立博物館を含むものであったと考えられている。
豊臣秀頼は秀吉の遺志を継ぎ、片桐且元を中心に大仏の再建を行う。今度は木造ではなく銅製の大仏を建立するが、慶長7年(1602)鋳物師の過失、あるいは慶長9年(1604)の放火により、大仏殿は炎上、仏像は融解してしまう。再び慶長13年(1608)大仏および大仏殿の再建が企図され、慶長15年(1610)に大仏殿の造営に着手した。そして大仏殿と銅製の大仏は慶長17年(1612)に完成する。平成21年(2009)京都市埋蔵文化財研究所によって行われた調査の現地説明資料に掲載されている方広寺発掘調査位置図・伽藍復原図には方広寺大仏殿の規模と共に蓮華王院の太閤塀と南大門の関係が記されている。現地説明資料に掲載されている方広寺発掘調査位置図・伽藍復原図には方広寺大仏殿の規模と共に蓮華王院の太閤塀と南大門の関係が記されている。に掲載されている方広寺発掘調査位置図・伽藍復原図には方広寺大仏殿の規模と共に蓮華王院の太閤塀と南大門の関係が記されている。蓮華王院の太閤塀と南大門の関係が記されている。の太閤塀と南大門の関係が記されている。
慶長19年(1614年)4月には梵鐘も完成し、銘文を南禅寺の禅僧文英清韓に選定させた。同年7月にはこの銘文について徳川家康より「不吉な語句がある」との異議が唱えられ、落慶法要中止の求めがあった。これが大阪冬の陣の遠因となる方広寺鐘銘事件である。
署名を除いた本文は以下のとおりである。
洛陽東麓 舎那道場 聳室瓊殿 横虹画梁
参差万瓦 崔嵬長廊 玲瓏八面 焜燿十方
境象兜夜 刹甲支桑 新鐘高掛 高音永鍠
響応遠江 律中宮商 十八声縵 百八声忙
夜禅昼誦 夕灯農香 上界聞竺 遠寺知湘
東迎素月 西送斜陽 玉笥堀池 豊山降霜
告怪於漢 救苦於唐 霊異惟夥 功用無量
家康は五山の僧や林羅山に鐘銘文を解読させている。崇伝らは文中の「国家安康」「君臣豊楽」を、「国家安康」は家康の諱を分断し、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願い徳川家に対する呪詛が込められていると断定する。また林羅山は「右僕射源朝臣家康」(右僕射は右大臣の唐名)を「家康を射る」ものであると解釈している。現在では方広寺鐘銘事件は、崇伝の強引な言いがかりによって引き起こされたとも取られているが、当時は名字と官職名もしくは通名等で呼ぶことが一般的であり、諱で呼ぶことは非常に無礼なことであった。そのことからも豊臣側の意図的な挑発あるいは、軽率な行為が徳川側の付け入る隙を与えたという見方もできるだろう。
南禅寺金地院の項でも触れたように、この事件によって以心崇伝は同じ南禅寺の禅僧であった文英清韓を駿府での拘禁へと追い込みこととなり、住職をしていた東福寺天得院も取り壊しとなっている。蟄居中の文英清韓は林羅山と知り合うことにより、後に許されたと言われている。南禅寺金地院の項でも触れたように、この事件によって以心崇伝は同じ南禅寺の禅僧であった文英清韓を駿府での拘禁へと追い込みこととなり、住職をしていた東福寺天得院も取り壊しとなっている。蟄居中の文英清韓は林羅山と知り合うことにより、後に許されたと言われている。の項でも触れたように、この事件によって以心崇伝は同じ南禅寺の禅僧であった文英清韓を駿府での拘禁へと追い込みこととなり、住職をしていた東福寺天得院も取り壊しとなっている。蟄居中の文英清韓は林羅山と知り合うことにより、後に許されたと言われている。東福寺天得院も取り壊しとなっている。蟄居中の文英清韓は林羅山と知り合うことにより、後に許されたと言われている。も取り壊しとなっている。蟄居中の文英清韓は林羅山と知り合うことにより、後に許されたと言われている。
この秀頼が建立した2代目の大仏も約50年後の寛文2年(1662)の地震で小破し、3代目は木造で造り直されている。なお壊れた大仏の銅は寛永通宝の鋳造に用いられたとも言われている。安永9年(1780)に刊行された都名所図会にはこの3代目の大仏の頃の図会が残され、図会が残され、が残され、
寛文二年本尊銅像を改て木像とし給ふ。
と記されている。
さらに寛政10年(1798)落雷により、大仏殿、本堂そして楼門が焼け、3代目の木造の大仏も灰燼に帰している。
元治元年(1864)に刊行された花洛名勝図会では既に大仏殿も失われ
寛政中回禄の後、唯礎石のみ存るといへども、帝畿第一の壮観の廃れたるを慨歎に堪ず。故に旧図の侭を挙るなり
とし、都名所図会に似た古の図会を掲載している。古の図会を掲載している。を掲載している。
やや時代の下った天保年間(1830~1843)に旧大仏を縮小した肩より上のみの木造の大仏像と仮殿が造られている。この4代目も昭和48年(1973)火災によって焼失している。現在では大和大路七条にある大仏前交番などの名前にのみ面影を留めている。なお豊国神社の鳥居の前の正面通は大仏殿の正面につながる通りを示すために名付けられている。
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