徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

秋の山



秋の山(あきのやま) 2008年05月18日訪問

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秋の山 丘の上に残る鳥羽伏見戦跡碑

 小枝橋からつながる城南宮道から30メートルくらい南に鳥羽離宮公園がある。周りの平坦な地形の中で少し盛られたような秋の山と呼ばれる場所がこの公園の北側にある。安永9年(1780)に刊行された都名所図会にも秋山として残されている。秋山として残されている。として残されている。
     「小枝橋半町ばかり南にして、茶店の向ふなり。鳥羽法皇城南離宮を営給ひし時、四季の風景をつくり、紅葉を多く植させ給ふ所を秋の山といふ、今纔の岡山遺れり」

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秋の山

 確かに人工的な構築物のように見える。紅葉する木々が植えられたことから秋の山とされていることからも、当時から景勝の地で茶店もあったのだろう。 やはり同じ都名所図会の城南神社の図会にも見られるように鳥羽街道より小高く、木々も生えていることから、伏兵を配するには理想的な地である。城南神社の図会にも見られるように鳥羽街道より小高く、木々も生えていることから、伏兵を配するには理想的な地である。にも見られるように鳥羽街道より小高く、木々も生えていることから、伏兵を配するには理想的な地である。

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秋の山 鳥羽伏見戦跡碑
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秋の山 鳥羽伏見戦跡碑

 この小高い丘の上には明治45年(1912)に建立された鳥羽伏見戦跡碑は今も残っている。真幡寸神社社司の鳥羽重晴と氏子総代達が発起人となったこの碑は、歴史的な事実を客観的に記した公正な碑文となっている。この他にも公園内には平成10年(1998)建立と新しい碑・鳥羽伏見の戦勃発の地小枝橋がある。こちらには新政府軍と幕府軍の配置の分かる地図が付けられているため、分かりやすい。残念ながら植え込みの中に作られた碑であるため、撮影した写真にも碑の下のほうが読みづらい状況になっている。上記のリンクにはその全文が記されているので、そちらをご参照下さい。鳥羽伏見戦跡碑は今も残っている。真幡寸神社社司の鳥羽重晴と氏子総代達が発起人となったこの碑は、歴史的な事実を客観的に記した公正な碑文となっている。この他にも公園内には平成10年(1998)建立と新しい碑・鳥羽伏見の戦勃発の地小枝橋がある。こちらには新政府軍と幕府軍の配置の分かる地図が付けられているため、分かりやすい。残念ながら植え込みの中に作られた碑であるため、撮影した写真にも碑の下のほうが読みづらい状況になっている。上記のリンクにはその全文が記されているので、そちらをご参照下さい。は今も残っている。真幡寸神社社司の鳥羽重晴と氏子総代達が発起人となったこの碑は、歴史的な事実を客観的に記した公正な碑文となっている。この他にも公園内には平成10年(1998)建立と新しい碑・鳥羽伏見の戦勃発の地小枝橋がある。こちらには新政府軍と幕府軍の配置の分かる地図が付けられているため、分かりやすい。残念ながら植え込みの中に作られた碑であるため、撮影した写真にも碑の下のほうが読みづらい状況になっている。上記のリンクにはその全文が記されているので、そちらをご参照下さい。碑文となっている。この他にも公園内には平成10年(1998)建立と新しい碑・鳥羽伏見の戦勃発の地小枝橋がある。こちらには新政府軍と幕府軍の配置の分かる地図が付けられているため、分かりやすい。残念ながら植え込みの中に作られた碑であるため、撮影した写真にも碑の下のほうが読みづらい状況になっている。上記のリンクにはその全文が記されているので、そちらをご参照下さい。となっている。この他にも公園内には平成10年(1998)建立と新しい碑・鳥羽伏見の戦勃発の地小枝橋がある。こちらには新政府軍と幕府軍の配置の分かる地図が付けられているため、分かりやすい。残念ながら植え込みの中に作られた碑であるため、撮影した写真にも碑の下のほうが読みづらい状況になっている。上記のリンクにはその全文が記されているので、そちらをご参照下さい。鳥羽伏見の戦勃発の地小枝橋がある。こちらには新政府軍と幕府軍の配置の分かる地図が付けられているため、分かりやすい。残念ながら植え込みの中に作られた碑であるため、撮影した写真にも碑の下のほうが読みづらい状況になっている。上記のリンクにはその全文が記されているので、そちらをご参照下さい。がある。こちらには新政府軍と幕府軍の配置の分かる地図が付けられているため、分かりやすい。残念ながら植え込みの中に作られた碑であるため、撮影した写真にも碑の下のほうが読みづらい状況になっている。上記のリンクにはその全文が記されているので、そちらをご参照下さい。

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秋の山 鳥羽伏見の戦勃発の地小枝橋の碑

 この碑文の中には鳥羽伏見の戦いでアームストロング砲が使用されたとしている。アームストロング砲は1855年にイギリスのウィリアム・アームストロングが開発した大砲。後装式で錬鉄製の層成砲身には施条されていたことから、長い射程距離、命中精度の高さ、そして速射性能を持っていた。
 1858年にイギリス軍の制式砲に採用されたが、薩英戦争で旗艦ユーリアラスに搭載されていた砲の爆発事故や発射不能が相次いだことから、兵器としての信頼性は急速に失われていった。輸出禁止が解除され南北戦争中のアメリカへ輸出、その戦後には幕末の日本へ売却された。司馬遼太郎の「アームストロング砲」(講談社文庫 1988年)であまりにも有名になったため、その破壊力は伝説化しているが、戊辰戦争で主力洋式野戦砲となっていた四斤山砲(前装式施条青銅砲)と比較しても特別な武器ではなかったようだ。果たして鳥羽伏見の戦勃発の地小枝橋の碑に記されているように、アームストロング砲が、この戊辰戦争の初戦に投入されたのであろうか?どうも確証が得られない。

 小枝橋 その1その2に続いて鳥羽伏見の戦いの始まりを再現してみる。小枝橋 その1その2に続いて鳥羽伏見の戦いの始まりを再現してみる。、その2に続いて鳥羽伏見の戦いの始まりを再現してみる。その2に続いて鳥羽伏見の戦いの始まりを再現してみる。に続いて鳥羽伏見の戦いの始まりを再現してみる。
 午前中から始まった押し問答は日暮れ間近まで続き、ついに談判は決裂する。野口氏の「鳥羽伏見の戦い」によると、幕府軍は二列の側面縦列で新政府軍の防御ラインに向けて前進を始める。路上に据えられた薩摩藩の大砲が火を吹き、幕府軍の先頭部分が薙ぎ倒される。それと同時に鴨川の西岸に配された小銃六番隊から横矢が入れられると、長く伸びた側面縦列の幕府軍は崩壊する。

 馬に跨っていた大目付滝川具挙の近くにも砲弾が落ちる。仰天した乗馬が暴れ出し、幕府軍に満ち溢れた鳥羽街道を逆走する姿は、幕府軍総大将の逃走とも見えたのではないだろうか。いずれにしても幕府軍にとって不吉さを感じさせる緒戦である。桑名藩士の手記によると幕府軍は弾丸も未装填のまま進軍していたようで、突然の攻撃に反攻することができなかった。不意を衝かれた幕府歩兵隊は大量の死傷者を出して逃げ走り、新政府軍は田畑に散開して前進を始める。見廻組が前線に留まり、多くの犠牲を払い時間を稼いだことで、幕府軍の戦線の崩壊は辛うじて収まる。後方から進み出た桑名藩砲兵隊が新政府軍に対して応射し、後方の幕府歩兵隊も鳥羽街道東側の田畑に展開し油小路から竹田街道方面の薩摩藩兵と交戦する。

 日が暮れた後も戦闘は続き、幕府軍は七度にわたる波状攻撃を仕掛けるも、押し戻され下鳥羽まで引き下がる。新政府軍も小枝橋の防御ラインを維持し、無謀な深い追いは行わなかった。街道沿いに建つ民家の火災により、新政府軍の陣地から幕府軍の波状攻撃は絶好の標的だったと思われる。

 このようにして長い1月3日が終わり、北風の強い4日も幕府軍は富ノ森の陣地を奪回するに留まる。そして翌5日に錦旗が戦場に翻ると富ノ森、納所の陣地が陥落し、幕府軍は淀小橋を焼き払い淀へと撤退する。淀藩は城門を閉ざし、幕府軍の入城を拒否する。そのため幕府軍は橋本まで撤退することになる。そして開戦から4日目となる1月6日の橋本の戦いで幕府軍が敗れると、山崎・橋本ラインから西側には地形的に遮るものもなくなり、広大な大阪平野に新政府軍はなだれ込む。そしてこの夜、徳川慶喜は将兵を大阪に置き去りにして江戸に戻る。かくて将軍の上京、議定職の就任による小御所会議以前の状況への復帰の可能性は完全になくなる。

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秋の山 鳥羽伏見の戦勃発の地小枝橋の碑

 幕府軍が数的有利を活かしきれず敗れ去ったのは、旧式な装備によるものではない。幕府歩兵隊の装備が、薩摩藩の銃隊と同等かそれ以上のものであったことは、野口武彦氏の「幕府歩兵隊 幕末を駆けぬけた兵士集団」(中央公論新社 2002年)で明らかにされている。
 敗因として最初に上げられることは、戦略の不徹底というよりは戦略のないまま大軍を押し出したことによる初戦の敗退と、1日目の失敗を2日目以降も修正できなかったことにある。これは陸軍奉行・竹中重固が幕府軍の戦況を把握し、作戦を修正し、さらにそれを徹底することができなかったことにある。
 また小枝橋に展開している新政府軍に対して二列側面縦列で突入するなど戦術的にも問題があったのではないだろうか。幕府歩兵隊の装備は近代化されたが、将官・士官クラスの養成まで出来ていなかったと思われる。奇兵隊を始めとする長州藩の諸隊は四境戦争での実戦を活かして強くなっている。鳥羽伏見の戦いの後、江戸に戻った幕府歩兵隊から脱走する集団が現れる。これらの脱走歩兵隊は大鳥圭介や古屋佐久左衛門に率いられ、北関東、北越、会津そして函館戦争まで戦闘を継続していく。過酷な実戦を経験することで旧幕府歩兵隊は鍛えられ確実に強くなっていった。

 しかし一番の問題は、政権奪回のための明確なプランが共有されていなかったことであろう。徳川慶喜の中には、ある程度の戦略が構築されていたのだろうが、それを幕閣が理解し得ていたのだろうか?将軍入京の御先供という名目で15000の兵を京に入れ、薩摩藩を追い出した後の計画まで用意されていたとは到底考えられない。このような状況下での中途半端な武力行使は、政治的には最も愚策であったと言える。ともかく12月28日にもたらされた江戸薩摩藩邸の焼討事件の情報に激高した強硬派の場当たり的な暴発を抑えることができなくて生じた事故として鳥羽伏見の戦いを理解するのが最も適切だと思われる。勿論、この暴発を許した徳川慶喜の指導力の欠如が、一番大きな問題である。慶喜の性格的な要因もあるだろうが、京都で政治活動を行ってきた慶喜の考えを遠く離れた江戸の幕閣が理解してサポートすることが出来たとは思えない。家近良樹氏の「孝明天皇と「一会桑」 幕末維新の新視点」(文春新書 2002年)でも禁門の変から慶応元年までの間に京の一会桑と江戸の幕閣との間に生じていた軋轢と一会桑敵視政策が行われてきたことを指摘している。現在では考えられないほど情報の伝達に時間を要した時代に、京で起きている事象を江戸で把握し、適確な政治的活動を指示することは不可能であった。だから慶喜の政治戦略は幕府内で共有されず、徳川家の命運も尽きる行動が生じることとなった。

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秋の山 鳥羽伏見の戦勃発の地小枝橋の碑

「秋の山」 の地図





秋の山 のMarker List

No.名称所在地緯度経度
  新政府軍 薩摩藩小銃五番隊 34.9505 135.7438
  新政府軍 薩摩藩小銃六番隊 34.9478 135.7403
  新政府軍 薩摩藩外城一番隊 34.9503 135.7524
  新政府軍 薩摩藩外城二番隊 34.9496 135.7471
  新政府軍 薩摩藩外城三番隊 半隊 34.9506 135.7429
  新政府軍 薩摩藩私領二番隊 34.9602 135.7428
  新政府軍 薩摩藩一番砲隊 半隊 34.9506 135.7432
  新政府軍 薩摩藩外城三番隊 半隊 34.9616 135.7533
  千本通002
  千本通003
  千本通004
  千本通005
  千本通006
  千本通007
  千本通008
  千本通009
  千本通010
  千本通011
  千本通012
  千本通013
  千本通014
  千本通015
  千本通016
  千本通017
  千本通018
  千本通019
  千本通020
  千本通021
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  千本通023
  千本通024
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  千本通026
  千本通027
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  千本通029
  千本通030
  千本通031
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  千本通037
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  千本通084
  千本通085
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  千本通087
  千本通088
  千本通089
  千本通090
  千本通091
  千本通092
  千本通093
  千本通094
  千本通095
  千本通096
  千本通097
  千本通098
  千本通099
  千本通100
  千本通101
  千本通102
  千本通103
  千本通104
  千本通105
  千本通106
01  四ッ塚の町並み 京都市南区西九条唐戸町34.9782 135.7427
02  上鳥羽の町並み 京都市南区上鳥羽岩ノ本町34.9614 135.7436
03  小枝橋 京都市伏見区中島秋ノ山町34.9506 135.7431
04  秋の山 京都市伏見区中島御所ノ内町34.9499 135.7437
05   下鳥羽 34.9401 135.7436
06   富ノ森 34.9157 135.7252
07  納所の町並み 京都市伏見区納所町34.9085 135.7184
08  八番楳木 千両松原 京都市伏見区納所下野34.9097 135.7286
09  淀小橋 京都市伏見区納所34.9078 135.7198
10  淀城 京都市伏見区淀本町34.905 135.7177
    

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