京都御苑 賀陽宮邸跡 その2
正月16日、梅田源二郎参殿、此度御館入被レ仰候御礼申上、仍レ之扇子三本入一箱献上、於二黒書院一御目見被二仰付一、御手ヅカラ昆布被レ下レ之。
宮家家臣の伊丹蔵人と山田勘解由は雲浜の門弟であったことから、この人々の手引きによって行われたのであろう。なお裃を着し座した雲浜の有名な肖像は、この謁見の時の服装であったとされる。同年2月に上京した堀田正睦に対する想定問答をまとめた意見書(「梅田雲浜遺稿並伝」152~8頁掲載)を親王に提出している。このように親王は最新の情報を雲浜に開示し、雲浜は自らの意見を親王に上申していたことが分かる。
以上のように実に多くの有志者が、親王が孝明天皇の政治顧問であること知り、親王自身の行動力に期待し入説を行っている。それにより親王を中心とした一橋派ネットワークが出来上がり、あたかも親王の意思によって動いているようになって行く。その影響範囲は宮中における近衛公、鷹司公父子、三条公から市井の梁川、梅田、池内、頼の悪逆四天王、さらに梅田からは吉田松陰を代表とする長州や水戸の有志、月照の薩摩人脈、そして水戸斉昭、島津斉彬、松平春嶽を中心とした一橋慶喜を推す大名や幕閣、幕府役人達まで及ぶ強大なものに成長していった。井伊直弼を中心とする南紀派にとって、親王が水戸の徳川斉昭とともに悪の巨魁に見えていたとしても決して不思議ではなかった。このような状況で安政の大獄が始まったとすれば、親王が大獄から逃れる術が最初からなかったことは明白である。
安政5年(1858)2月23日、御三家以下諸大名に台命を下しその所存を明らかにする事という朝旨が伝奏議奏より伝えられている。開港の可否についても触れていなかったため再度勅許を請う。九条関白が作成した勅答案には、幕府にとって受け入れやすいように「何共御返答之被遊方無之此上ハ於関東可有御勘考様御頼被遊度候事」(「孝明天皇紀 巻78」(平安神宮 1967年刊)3月20日の条「長谷家記」)という一文が加えられている。つまり先の御三家を含めた所存を正した朝旨から、対外政策については幕府に一任するという内容に一変している。これを察知した公卿達は同月12日に参内連署して勅答案反対の旨を訴える、いわゆる廷臣八十八卿列参事件を起こす。このような事件を経て2回目の勅答案が三条実萬等複数の公家によって作成される。
勅答が確定し参内した堀田正睦に交付されたのは3月20日であった。その内容は2月23日の朝旨に戻り、更に衆議し言上せよという内容であった。条約勅許についての幕府の願いは完全に拒絶されこととなった。同月21日、橋本左内は三条・近衛・鷹司により、将軍継嗣問題についての年長・賢明・人望の三条件が付いた御内勅降下を申請する。同日の延議において九条尚忠の反対を押し留めたが、翌22日の内勅を交付する際に、九条関白によって三条件が削除されている。そして、「年長之人を以」という付札のある書付が下った。京都では橋本左内の積極的な周旋と王室書生らの暗躍により一橋派が優勢に事態を進めてきたが、最後の最後にして九条尚忠によって曖昧な内勅に変更されている。
一方江戸においても将軍ならびに大奥への周旋に失敗した一橋派に対して、安政5年(1858)4月23日に南紀派の彦根藩主・井伊直弼が大老に就任、6月1日には養君決定の発表を行っている。ほぼこれを以って将軍継嗣問題は終結し、安政の大獄に向かって行く。
MarkerNo | 名称 | 緯度 | 経度 |
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赤● | 京都御苑 賀陽宮邸 貽範碑 | 35.0199 | 135.7611 |
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