徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

法輪寺 その2



真言宗五智教団 智福山 法輪寺(ほうりんじ)その2 2008年12月21日訪問

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法輪寺 多宝塔

 天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会には、禁門の変で焼け落ちる前の法輪寺の姿が残されている。この図会には現在の状況と一致する場所も、しない場所も存在し、なかなか興味深い。図会の下部には恐らく物集女街道と思われる道と民家が描かれている。ここから境内に入るとすぐに石橋が現れる。安永9年(1780)に刊行された都名所図会には、法輪寺の姿が残されている。この図会には現在の状況と一致する場所も、しない場所も存在し、なかなか興味深い。図会の下部には恐らく物集女街道と思われる道と民家が描かれている。ここから境内に入るとすぐに石橋が現れる。安永9年(1780)に刊行された都名所図会には、が残されている。この図会には現在の状況と一致する場所も、しない場所も存在し、なかなか興味深い。図会の下部には恐らく物集女街道と思われる道と民家が描かれている。ここから境内に入るとすぐに石橋が現れる。安永9年(1780)に刊行された都名所図会には、都名所図会には、には、
     轟橋 楼門の前にかくる橋をいふ

とあるので、江戸時代の橋がそのまま残ったように思われる。現在この轟橋の下には池がないため、無用の橋となっている。図会では、この橋の先で90度折れると二層の楼門が描かれている。現在は石段の前に建つ山門の間に妙な空白の空間に数段の石段が残されている。丁度この場所に楼門があったのだろう。境内を歩いている時は気が付かなかったが、Google Mapで見てみると楼門の跡のようにも見える。

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法輪寺 山門の中 左は参籠堂か? 右に電電塔が見える
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法輪寺

 新たに造られた山門を潜るとすぐに石段が始まるが、左手に待合みたいな空間が作られている。似たようなものが図会にも残されているが文字が判別できない。先の都名所図会には以下のような記述が残っている。都名所図会には以下のような記述が残っている。には以下のような記述が残っている。
     参籠堂 都の工職人此所に籠り一七日断食し、瀧に垢離し、本尊に智福を祈る、近年断食の輩つねにたえまあらず

 この参籠堂なのかもしれない。図会に描かれた堂宇の右手には滝らしきものと社も見える。

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法輪寺 石段の上から山門を眺める 左に進むと人形塚 右は電電宮へ

 石段の始まるところには、大倭国讃葛野聖地の碑が建つ。応神天皇が宇遅野で詠んだといわれている下記の国土讃歌が古事記中巻と日本書紀巻第十に掲載されている。大倭国讃葛野聖地の碑が建つ。応神天皇が宇遅野で詠んだといわれている下記の国土讃歌が古事記中巻と日本書紀巻第十に掲載されている。が建つ。応神天皇が宇遅野で詠んだといわれている下記の国土讃歌が古事記中巻と日本書紀巻第十に掲載されている。
     千葉の 葛野を見れば 百千足る家庭も見ゆ 国の秀も見ゆ

 フィールドミュージアム京都は、葛野地方の農民間で歌われていた葛野讃歌を応神天皇の御製歌としたと考えている。宇治あたりから嵐山を遠望するのには少し無理があるようにも感じられる。ここでは葛野川=桂川の流域一帯の地を古代大和の人々が賛美した歌と考えるのが妥当かもしれない。

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法輪寺 多宝塔 左に葛井が見える
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法輪寺 葛井

 石段を登りきると正面に本堂が現れる。本堂は図会の通りであるが、左手の多宝塔は描かれていないので、明治以降に追加された堂宇なのであろう。

 都名所図会には、明星社について以下のような記述がある。都名所図会には、明星社について以下のような記述がある。には、明星社について以下のような記述がある。
     落星井 又明星井ともいふ、本堂の南にあり。井のうへに社を建て明星天をまつる。道昌此井にて垢離し給ふとき星くだりけるとなり

 星落井は葛井とも呼ばれ、道昌が百日間の求聞持法の満願の日、井戸で水を汲むと明星が天空より降り注ぎ、虚空蔵菩薩が来迎したといわれている。この井水は秦氏が、酒造、飲料用に使ったとされている。
 道昌が星落井の水を汲んだ時に現れた虚空蔵菩薩は、先に触れたように智恵と慈悲を持った菩薩である。虚空蔵菩薩の智恵が広大な宇宙のような無限性を持っているため、宇宙の自然現象を広く包含する力を持つと考えられていたのであろう。法輪寺の公式HPでも、明星天子や雨宝童子そして電電明神等の大空の自然に関連した神々を祀る鎮守社が存在していたとしている。古くから雷の神・電電明神は田の神と同一視されたということは、五穀豊穣の神ともつながるのであろう。そのため電電宮はこの地の人々に崇められていた。しかし元治元年(1864)の禁門の変により本堂などとともに明星社も焼失し、長く仮宮に鎮座したままとなっていた。公式HPでも、明星天子や雨宝童子そして電電明神等の大空の自然に関連した神々を祀る鎮守社が存在していたとしている。古くから雷の神・電電明神は田の神と同一視されたということは、五穀豊穣の神ともつながるのであろう。そのため電電宮はこの地の人々に崇められていた。しかし元治元年(1864)の禁門の変により本堂などとともに明星社も焼失し、長く仮宮に鎮座したままとなっていた。でも、明星天子や雨宝童子そして電電明神等の大空の自然に関連した神々を祀る鎮守社が存在していたとしている。古くから雷の神・電電明神は田の神と同一視されたということは、五穀豊穣の神ともつながるのであろう。そのため電電宮はこの地の人々に崇められていた。しかし元治元年(1864)の禁門の変により本堂などとともに明星社も焼失し、長く仮宮に鎮座したままとなっていた。

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法輪寺 御針供養塔
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法輪寺 多宝塔から眺める境内

 昭和31年(1956)仮宮であった社殿を電気電波関係業界の発展を祈願するため電電宮として新たに奉祀され、同時に電電宮並びに電電塔奉賛会(電電宮護持会)が発足した。電電宮はかつての五穀豊穣を願う社ではなく、電気、電力、電波、電子機器、放送、ソフトウェア関連企業などの信仰を集める社に変わっている。この他にも電磁波の放射の存在を実証したドイツの物理学者 ハインリヒ・ルドルフ・ヘルツとアメリカの発明王 トーマス・アルヴァ・エジソンの業績を顕彰する電電塔も設けられている。山門を入った右手にヘルツとエジソンの円形のレリーフが埋め込まれた石造の壁を背にして電電塔が建てられている。見た記憶が鮮明に残っているにもかかわらず電電塔の写真が何故か残っていない。また電電宮は石段の途中を左に入った先にあったようだ。こちらも法輪寺電電宮護持会会員御芳名が掲示されているのは気がついていたが、そのまま石段を登り本堂に出てしまったため見逃してしまったようだ。どうも今回は電電宮には縁がなかったようだ。

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法輪寺 人形塚

 Wikipediaの法輪寺の項の記述によると、電気自動車およびハイブリッドカーの電気システム安全祈願も受け付けているらしい。そういえば本堂の斜め前に広い空間があった。嵐山を眺望するための展望台かと思っていたが、自動車の御祓いを行う場所だったのかもしれない。先ほどの空地の下を通り境内の北側を進むと人形塚などが見える。さらに進むと細い石段となり、これを下りきると目の前に大堰川と渡月小橋が現れる。振り返ると「十三まいり」の看板の架かった法輪寺の門がある。記述によると、電気自動車およびハイブリッドカーの電気システム安全祈願も受け付けているらしい。そういえば本堂の斜め前に広い空間があった。嵐山を眺望するための展望台かと思っていたが、自動車の御祓いを行う場所だったのかもしれない。先ほどの空地の下を通り境内の北側を進むと人形塚などが見える。さらに進むと細い石段となり、これを下りきると目の前に大堰川と渡月小橋が現れる。振り返ると「十三まいり」の看板の架かった法輪寺の門がある。によると、電気自動車およびハイブリッドカーの電気システム安全祈願も受け付けているらしい。そういえば本堂の斜め前に広い空間があった。嵐山を眺望するための展望台かと思っていたが、自動車の御祓いを行う場所だったのかもしれない。先ほどの空地の下を通り境内の北側を進むと人形塚などが見える。さらに進むと細い石段となり、これを下りきると目の前に大堰川と渡月小橋が現れる。振り返ると「十三まいり」の看板の架かった法輪寺の門がある。

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法輪寺

「法輪寺 その2」 の地図





法輪寺 その2 のMarker List

No.名称所在地緯度経度
 法輪寺 京都市西京区嵐山虚空蔵山町6835.01 135.6772
01   渡月小橋 35.0114 135.6774
02   一ノ井堰碑 35.0111 135.6785
    

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