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石塀小路の町並み



石塀小路の町並み(いしべいこうじのまちなみ) 2009年11月29日訪問

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石塀小路の町並み 圓徳院の裏

 圓徳院を出た頃は、空にまだ少し明るさが残っていたが、高台寺の台所坂を下ると、既に町は暗闇の中にあり、店々の軒に下がる看板だけが目立つようになっていた。圓徳院を出た頃は、空にまだ少し明るさが残っていたが、高台寺の台所坂を下ると、既に町は暗闇の中にあり、店々の軒に下がる看板だけが目立つようになっていた。を出た頃は、空にまだ少し明るさが残っていたが、高台寺の台所坂を下ると、既に町は暗闇の中にあり、店々の軒に下がる看板だけが目立つようになっていた。高台寺の台所坂を下ると、既に町は暗闇の中にあり、店々の軒に下がる看板だけが目立つようになっていた。の台所坂を下ると、既に町は暗闇の中にあり、店々の軒に下がる看板だけが目立つようになっていた。 八坂神社の南楼門から南に延びる下河原町通の東側、維新の道とよばれる京都霊山護国神社参道の北側で高台寺と霊山観音を含む地域は下河原町とされている。「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 初版第4刷1993年刊)によると、この下河原町通は祇園社(現八坂神社)の表参道であったことより祇園大路という名称があり、中世には百度大路あるいは百度小路とも呼ばれていた。安永9年(1780)に刊行された都名所図会に掲載されている牛王地社には下記のように記されている。八坂神社の南楼門から南に延びる下河原町通の東側、維新の道とよばれる京都霊山護国神社参道の北側で高台寺と霊山観音を含む地域は下河原町とされている。「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 初版第4刷1993年刊)によると、この下河原町通は祇園社(現八坂神社)の表参道であったことより祇園大路という名称があり、中世には百度大路あるいは百度小路とも呼ばれていた。安永9年(1780)に刊行された都名所図会に掲載されている牛王地社には下記のように記されている。の南楼門から南に延びる下河原町通の東側、維新の道とよばれる京都霊山護国神社参道の北側で高台寺と霊山観音を含む地域は下河原町とされている。「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 初版第4刷1993年刊)によると、この下河原町通は祇園社(現八坂神社)の表参道であったことより祇園大路という名称があり、中世には百度大路あるいは百度小路とも呼ばれていた。安永9年(1780)に刊行された都名所図会に掲載されている牛王地社には下記のように記されている。牛王地社には下記のように記されている。には下記のように記されている。
     牛王地社は下河原の南にあり、祇園牛頭天王、
     播州広峯より初て鎮座し給ふ地なりとぞ。
     祇園百度参りは本社より此社迄詣し、歩の数を運ぶ事
     昔よりの例なりとかや。下河原を百度大路といふ名あり、
     旧記に見えたり。

 また図絵には菊水橋のたもとに小祠が描かれている。菊水橋は「石造幅弐間。長一間」とあるので、下河原町通の幅員に比べかなり小さな橋であったようだ。碓井小三郎の「京都坊目誌」(新修京都叢書刊行会 光彩社 1969年刊)でも以下の同様の記述が見られえる。

     下河原町菊渓の北当町(上弁天町)の側に
     道路の西頗南面に小祠あり之を巷社と云ふ。
     又牛王地とも維新後廃せらる。今に一株の
     樹木道路中に存するは此遺址なり。
     相伝ふ八坂神の最初鎮座の所なりと。
     中古此地に五輪の石造塔婆ありしと。
     或云之れ祇園の蹟なりとも。

 菊渓川は既に暗渠化されており、かつての流路を特定することはできない。そのため菊水橋やそのふもとあったとされる牛王地社も現在では失われたようだ。ただしGoogleMapの高台寺境内と岡林院に残る菊渓川を延長すると上弁天町446の南側の路地がかつての流路の様にも見えてくる。この道の北側の京玄庵(現在は水円)にある新しい祠がかつての牛王地社を継承したものだろうか?あくまでも推測の域を脱せない。特定することはできない。そのため菊水橋やそのふもとあったとされる牛王地社も現在では失われたようだ。ただしGoogleMapの高台寺境内と岡林院に残る菊渓川を延長すると上弁天町446の南側の路地がかつての流路の様にも見えてくる。この道の北側の京玄庵(現在は水円)にある新しい祠がかつての牛王地社を継承したものだろうか?あくまでも推測の域を脱せない。することはできない。そのため菊水橋やそのふもとあったとされる牛王地社も現在では失われたようだ。ただしGoogleMapの高台寺境内と岡林院に残る菊渓川を延長すると上弁天町446の南側の路地がかつての流路の様にも見えてくる。この道の北側の京玄庵(現在は水円)にある新しい祠がかつての牛王地社を継承したものだろうか?あくまでも推測の域を脱せない。

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石塀小路の町並み 高台寺側の入口
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石塀小路の町並み

 下河原という地名は下河原町を中心とし東山安井あたりまでの地域を指し示す。先の「京都坊目誌」でも「下河原は汎き称号にして 今云清井町より西は建仁寺を限り 南は五條今の松原宮の辻に至りしと云ふ」としている。この地名は菊渓川と轟川がこの地で合流し広大な河原ができたことに因っているため広域な地名となっている。轟川は清水一丁目の音羽山より発し、二丁目、三丁目、八坂上町、星野町、下弁天町を経て小松町、建仁寺境内に入る。轟川には轟橋が架けられていたが、これは清水三丁目の産寧坂下にあったとされている。なお牛王地社が描かれていた都名所図会にも以下のように記されている。都名所図会にも以下のように記されている。にも以下のように記されている。
     下河原はむかし雲居寺、今高台寺の地なり、
     北より谷川流れ出て一面の河原なり。
     驟雨の時は満水して下流にては宮川と号し、
     鴨川に流れ入るなり。
     何れの世よりか山崩れて川を埋み、
     高楼飛観軒端をつらね、歌舞の妓婦花やかに
     出立てほのめきあへるさま、いかならん人も
     ただにすぎぬべきやうにもあらずと見えたり。

 この下河原に人家が建てられ下河原町となった時期は明確ではない。「京都坊目誌」では、「慶長十年高台寺創建に際し、町名と為し、同寺の封内に属す。」とし、高台寺創建時点が下河原町の始まりとしている。「京都市の地名」でも「京都坊目誌」の説を紹介した上で、二枚の図絵より人家が建てられた時期を承応2年(1653)から寛文2年(1662)の間頃と推測している。
 「京町鑑」(新修京都叢書刊行会 光彩社 1969年刊)より、下河(川)原町とは別に高台寺門前町という町が存在していたことが分かっている。「京町鑑」では「即此町(高台寺門前町)に高台寺表門有」としているので、恐らく維新の道の両側、すなわち現在の下河原町の南側と南町の一部分を加えた範囲にあったと思われる。「京町鑑」が刊行されたのは宝暦12年(1762)のことであるが、既に寛永14年(1637)には高台寺門前町に人家があったことが分かっている。ただし高台寺門前町が下河原町に一致するかは分かっていない。また高台寺門前町も現存しない地名となっているため、そのあたりのことが明確になっていないようだ。
 かつて八坂上・金園・南枡町の辰巳新地、清水三丁目・四丁目の清水とともに下河原町にも遊郭があった。「京都坊目誌」では、高台院がこの地に館を構えてから、舞芸の者を召して演芸させたのが始まりとしている。舞芸の芸者がこの地に集まり、高台院崩御の後は一般のお客の招きにも応じるようになる。町芸者と称し、当時祇園などにいた茶屋女とは違い、遊女めいたところがなく、芸に優れていていたとされている。そのため他の地域の芸者と比べ品格が正しく、後に円山その他の諸楼より酒席に招かれるようになり、「山根子」と呼ばれるようになる。明治3年(1870)京都府命で停止させたが、島原からの出稼ぎと称して残ったため、改めて明治19年(1886)に祇園新地と合併させられる。これにより下河原町遊郭は自然に衰退していった。

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石塀小路の町並み
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石塀小路の町並み

 石塀小路と呼ばれる地域は下河原町通とねねの道に挟まれた場所にある。当初は圓徳院の境内だったが、明治初年の上知令により圓徳院の一部を取り崩すこととなった。因みに高台寺の境内は慶長以来、95,047坪であったが明治2年(1869)には上知により、15,515坪と凡そ1/6に削減されている。ただし明治37年(1904)に国有林4,500坪が還付されているので、凡そ20,000坪となっている。

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石塀小路の町並み
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石塀小路の町並み

 粟津征二郎の紀行エッセイ 第30回 大正ロマンの石塀小路でも触れているように、明治期に製茶販売で財をなした上村常次郎が圓徳院やこの近隣の土地を購入し、宅地用に開発している。宅地といっても現在の不動産屋のような住宅地分譲として売るのではなく、席貸を併用した借家を経営する事を考えていたらしい。正法寺の塔頭や円山公園にあった六阿弥のような貸席を持った塔頭をイメージしたのであろう。大きな寺院の敷地を小規模に分割して貸家を建てるため、下河原通と高台寺道(ねねの道)の間に新たな路地を作らねばならなくなった。それが石塀小路誕生の経緯であろう。第30回 大正ロマンの石塀小路でも触れているように、明治期に製茶販売で財をなした上村常次郎が圓徳院やこの近隣の土地を購入し、宅地用に開発している。宅地といっても現在の不動産屋のような住宅地分譲として売るのではなく、席貸を併用した借家を経営する事を考えていたらしい。正法寺の塔頭や円山公園にあった六阿弥のような貸席を持った塔頭をイメージしたのであろう。大きな寺院の敷地を小規模に分割して貸家を建てるため、下河原通と高台寺道(ねねの道)の間に新たな路地を作らねばならなくなった。それが石塀小路誕生の経緯であろう。でも触れているように、明治期に製茶販売で財をなした上村常次郎が圓徳院やこの近隣の土地を購入し、宅地用に開発している。宅地といっても現在の不動産屋のような住宅地分譲として売るのではなく、席貸を併用した借家を経営する事を考えていたらしい。正法寺の塔頭や円山公園にあった六阿弥のような貸席を持った塔頭をイメージしたのであろう。大きな寺院の敷地を小規模に分割して貸家を建てるため、下河原通と高台寺道(ねねの道)の間に新たな路地を作らねばならなくなった。それが石塀小路誕生の経緯であろう。正法寺の塔頭や円山公園にあった六阿弥のような貸席を持った塔頭をイメージしたのであろう。大きな寺院の敷地を小規模に分割して貸家を建てるため、下河原通と高台寺道(ねねの道)の間に新たな路地を作らねばならなくなった。それが石塀小路誕生の経緯であろう。や円山公園にあった六阿弥のような貸席を持った塔頭をイメージしたのであろう。大きな寺院の敷地を小規模に分割して貸家を建てるため、下河原通と高台寺道(ねねの道)の間に新たな路地を作らねばならなくなった。それが石塀小路誕生の経緯であろう。六阿弥のような貸席を持った塔頭をイメージしたのであろう。大きな寺院の敷地を小規模に分割して貸家を建てるため、下河原通と高台寺道(ねねの道)の間に新たな路地を作らねばならなくなった。それが石塀小路誕生の経緯であろう。のような貸席を持った塔頭をイメージしたのであろう。大きな寺院の敷地を小規模に分割して貸家を建てるため、下河原通と高台寺道(ねねの道)の間に新たな路地を作らねばならなくなった。それが石塀小路誕生の経緯であろう。ねねの道)の間に新たな路地を作らねばならなくなった。それが石塀小路誕生の経緯であろう。)の間に新たな路地を作らねばならなくなった。それが石塀小路誕生の経緯であろう。この地域の家は石垣を積上げた地盤の上に建ち、道路面より建物の1階床は高くなっている。これは、高台寺道から下河原道にかけて敷地が下っていくためと先の粟津征二郎氏のブログにもあるように東山山系、鷲峯山から流れ出る菊渓川が増水し、度々洪水のようになったために設けられたようだ。
 石塀小路は下河原道に面して2箇所、高台寺道に面して1箇所の入口があり、路地は大まかにはユの字型している。河原町通の北側の口は1間位の路地となっているので中を知らない人はなかなか入りにくい。もうひとつの南側の口には石造の門柱が建てられ、神社の鳥居のように見える。
 各入口には石塀小路と書かれた街灯が設置されている。この街灯のデザインが大正時代の雰囲気を醸し出している。路地は石畳敷きとなっているが、昭和時代まで京都の市電の線路敷に使用されていたものを展用している。
 効率性を求めるならば、下河原町通と高台寺通の間に並行に4本から5本の路地を付ければよかったと思う。それをユの字型に路地を設けたことにより、この町並みに曲がり角ができた。これが次から次へと新しいシークエンスを生み出すこととなっている。つまり曲がり角毎に次にどのような光景あるいは店が現われるかを期待させる効果を生み出している。さらに入口を小さくし、見知っている人しか招きこまないようにしたことが隠れ家感を強くしている。残念ながら京都の中でも最も観光客を集める地域に隣接するため、多くの観光客とすれ違わざるを得なくなっている。それでもこの町を訪れるとワクワクするのは、多くの店舗や旅館が並ぶ現役の町であるからだろう。

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石塀小路の町並み 下河原町通北側の入口¶
門燈がなければ分からないくらい細い
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石塀小路の町並み 下河原町通南側の入口

 京町家再生研究会「石塀小路界隈の町家改修」には、開発者・上村常次郎の孫であり、元石塀小路大家である上村榮一氏が紹介されている。石塀小路は周辺住民の合意を得て作り上げたデザインコードではなく、開発者と大工が決めたコードによっている。そのことによって統一感が守られている。これは所有者が一人であったことが重要な役割となっている。そして、一番重要なことは定めたデザインコードが極めてセンスの良いものであったことである。石塀小路界隈の町家改修」には、開発者・上村常次郎の孫であり、元石塀小路大家である上村榮一氏が紹介されている。石塀小路は周辺住民の合意を得て作り上げたデザインコードではなく、開発者と大工が決めたコードによっている。そのことによって統一感が守られている。これは所有者が一人であったことが重要な役割となっている。そして、一番重要なことは定めたデザインコードが極めてセンスの良いものであったことである。」には、開発者・上村常次郎の孫であり、元石塀小路大家である上村榮一氏が紹介されている。石塀小路は周辺住民の合意を得て作り上げたデザインコードではなく、開発者と大工が決めたコードによっている。そのことによって統一感が守られている。これは所有者が一人であったことが重要な役割となっている。そして、一番重要なことは定めたデザインコードが極めてセンスの良いものであったことである。先の「石塀小路界隈の町家改修」でも以下のようにまとめている。

     この地域は古くから社寺の門前町として栄え、
     ねねの伝統を継ぐ由緒ある芸者の町として
     発展してきたそうです。
     そんな地域の伝統と周辺の開発の状況をふまえ、
     上村常次郎さんは開発の構想を立てていきました。
     実際の施工には林幸次郎さんという大工さんに
     すべておまかせしたとのこと。敷地の高低をうまく
     解決するために路地を切り開き、石垣を積んだり、
     高塀を作ったりして、美しい路地空間をつくって
     ゆきました。ここは、ひとりの開発者と、ひとりの
     大工さんが相談して作り上げた町並み
     景観だったわけです。

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石塀小路の町並み

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