伏見稲荷大社
伏見稲荷大社 (ふしみいなりたいしゃ) 2008/05/10訪問
Overview
This article documents a visit to Fushimi Inari Taisha, the head shrine of approximately 30,000 Inari shrines across Japan, on May 10, 2008. The report explores the shrine’s origins, traced back to the year 711 by the Hata clan, and its architectural highlights such as the Romon Gate donated by Toyotomi Hideyoshi and the famous “Senbon Torii” (Thousands of Torii Gates). It details how the shrine survived the total destruction during the Onin War (15th century) and evolved from a deity of agriculture to a patron of business and safe travel. The narrative provides historical context on traditional customs like the “Shirushi-no-Sugi” (tokens of cedar twigs) and the significance of fox statues as divine messengers, capturing the enduring spiritual atmosphere of Mt. Inari.
概要
本稿は2008年05月10日に、全国約3万社の総本宮である「伏見稲荷大社」を訪問した際の記録です。豊臣秀吉が寄進した壮麗な楼門、五社相殿の本殿、そして「お稲荷さん」の象徴ともいえる千本鳥居を巡りつつ、その深遠な歴史を紐解きます。和銅4年(711年)の創建伝承や、太秦の秦氏との関わり、応仁・文明の乱による全焼と復興、さらには平安貴族から庶民に至るまでの「初午詣」や「しるしの杉」といった信仰の変遷を詳細に記述しています。神仏習合の面影や、中世・近世を通じて商売繁盛・五穀豊穣の神として全国へ波及していった過程を、重厚な筆致で綴っております。
お庭を拝観させていただいたことに御礼し大橋家を後にし伏見街道へ出る。あらためて伏見稲荷大社の表参道から第一鳥居そして第二鳥居をくぐると豊臣秀吉が寄進したと言われている楼門が現れる。楼門の前には阿吽の狛犬ではなく二体の狐の像が設置されている。
伏見稲荷大社は全国約3万社の稲荷大神を祀る稲荷神社の総本宮とされています。稲荷大神(お稲荷さん)として信仰を集める宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)を主祭神とし、佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四大神(しのおおかみ)の五神を配祀している。稲荷神は農業の神であるために、伏見稲荷大社には五穀豊穰・商売繁盛・交通安全などのご利益がある。
式内社(名神大)
二十二社の上七社の一社
神社の社格を定めるものとして永保元年(1081年)に制度化された「二十二社」において伏見稲荷大社は、伊勢神宮 石清水八幡宮 賀茂別雷神社・賀茂御祖神社 松尾大社 平野神社 春日大社と並ぶ「上七社」に列せられている。
旧社格 官幣大社。
伏見稲荷大社の創設については、「山城国風土記逸文伊奈利社条」が最も古い記録とされている。ここでは秦中家忌寸(はたのなかつえのいみき)より8代(禰宜としては7代)前の秦伊呂巨(はたのいろこ)の話として記述されている。
富に恵まれ豊かな生活をおくっていた秦伊呂巨は、ある時餅を的として矢を射たところ、餅が白鳥となり飛び去っていった。この鳥が山に留まったところに稲が生えたのを見た伊呂巨は神の為されたことと思い、社を建てた。これが伏見稲荷大社の始まりとされている。先の「山城国風土記」にはその年代を特定していないが、文明元年(1469)に吉田兼倶が撰したとされる「二十二社註式」には和銅4年(711)2月の初午の日としている。
この時期、全国的に気候不順で不作が続き、勅使を名山大川に遣わせて祈祷したところ、五穀大いに稔り国は富み栄えたという伝承もある。太秦の秦氏が大宝元年(701)桂川畔の松尾山に松尾神を奉鎮したのと同じ時代に、深草の有力な豪族である秦氏族が稲荷山三ヶ峰の平らな場所に稲荷神を奉ったという説明のほうが分かりやすいかもしれない。
延長5年(927)奏上された「延喜式神名帳」には「稲荷神社 三座」と記されている。これよりはるか以前から、下ノ社・中ノ社・上ノ社として稲荷神は三座に祀られていることは事実であった。
しかし後白河院(1127~1192)の撰になる歌集「梁塵秘抄」には、
いなりおはみつのやしろとききしかと
いまはいつつのやしろなりけり
と詠われていることから、このころには稲荷五座となっていたことが分かる。すなわち前述の三座に“下社摂社・田中社”と“中社摂社・四之大神”という来歴不詳の摂社二座が、12世紀末以降「稲荷大神」に含まれるようになった。田中大神はその名称からも農耕神的な色彩が濃いことが想像できるが、四大神は四柱の神なのか一柱の神なのかも良く分からない。松尾大社の御祭神の一座に、四之大神が祀られていることから、秦氏にとっても関係のある神であるようにも思える。伏見稲荷大社のHPよりこの二座を「元は稲荷神と何らかの深い関わりがある地主神、あるいは土着神的傾向が濃厚であるようです。」と考えていることが伺える。
旧暦の初午は、2月下旬から3月中旬のやや春めいた頃に訪れる。伏見稲荷大社には初午詣ということで、平安時代の初期から多くの人が集まっていたことが「大鏡」などから伝わる。物見遊山な参詣者もいれば、七度も登拝を行う熱烈な信仰者もいたようだ。
また稲荷社の杉の小枝(しるしの杉)をいただいて、体のどこかにつけることが一般化したのも平安時代の中期頃と考えられている。熊野詣が盛んになり、その往きには道中の安全を祈願、帰りには稲荷神が遣わした護法童子に御礼するために稲荷社に参詣することが習わしとなっていた。その際、稲荷神との縁を結ぶ証であるしるしの杉を笠に差したりしていたようだ。
応仁元年(1467)、守護大名・畠山氏の家督争いに対する将軍家の調停失敗に端を発し10年に渡る応仁・文明の乱が始まる。争いは室町幕府管領の細川勝元(東軍)と山名持豊(宗前)(西軍)の間で行われ、九州などの一部の地方を除く全国に拡大していった。
伏見稲荷大社のHPに掲載されている沿革 応仁・文明の乱によると、大乱の初期 応仁2年(1468)3月15日に東軍は淀・伏見・深草・竹田・鳥羽を見下ろすことのできる稲荷山に陣を築き、西軍山名宗前軍の糧道を絶とうとした。これに対して西軍も3月21日畠山義就軍をさし向け、稲荷山攻めを決行した。この合戦により伏見稲荷大社は午前7時頃から昼すぎまでの間に堂塔全てと創立からの歴史を綴った多くの記録を失うこととなる。
しかし復興への道のりは早く、同年12月には仮殿を設け、翌年には稲荷祭を執り行われている。そして明応元年(1492)2月本殿が修造され、同8年(1499)11月23日に五社相殿の本殿となった。
豊臣秀吉の天下統一により、騒乱の戦国時代は終わりを告げる。秀吉は稲荷大神に深く崇敬をよせ、天正15年(1587)に落成した聚楽第には稲荷社を勧請している。大政所の大病平癒をよろこび、天正17年(1589)に楼門を寄進している。また深草よりやや南の伏見の地に伏見城と城下町が秀吉により築かれたのは文禄3年(1594)である。この後伏見が港湾商業都市として発展するのと同時に伏見稲荷大社の信仰も全国へと広がっていくこととなる。
慶応4年(1868)正月3日の夕刻に始まった鳥羽・伏見の戦いは、実質的にはわずか1日で主戦場が鳥羽・伏見から淀・大坂へと移っていたこと、また深草がこの戦場からやや離れていたことにより、応仁・文明の乱のような被害を被るようなことはなかった。
当初の予定では四ツ辻位まで巡るつもりであったが、ここにいたるまでにかなりの時間超過をしてしまったため、楼門 から 本殿 千本鳥居 奥社参拝所で折り返すこととなった。天気も良くなく、ご覧の通り暗い写真しか撮れなかった。次回天気の良い日にもう少し時間をとって訪れることとしよう。
















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