御香宮神社庭園
御香宮神社庭園(ごこうのみやじんじゃ ていえん) 2008/05/10訪問
Overview
This article describes a visit to the Gokogu Shrine Garden on May 10, 2008. The garden is a modern reconstruction by the renowned landscape architect Nakane Kinsaku, using original stones and materials excavated from the site of the former Fushimi Magistrate’s Office. Originally designed by Kobori Enshu in the early 17th century, the office was destroyed during the Battle of Toba-Fushimi (1868). The focal point of the garden is a massive, rectangular stone washbasin dated 1477, which exudes a powerful presence amid the moss and white sand. The report reflects on the historical realignment of the site—from an administrative hub to a military base, and finally to a serene spiritual space—while capturing the garden’s geometric beauty as seen from the quiet guest hall.
概要
本稿は2008年05月10日に、御香宮神社の社務所に隣接する「御香宮神社庭園」を訪問した際の記録です。この庭園は、かつて伏見奉行所内に小堀遠州が作庭した庭の遺構を基に、昭和の名庭師・中根金作が復元・構成したものです。伏見奉行所の数奇な変遷(幕末の焼失、陸軍・米軍の使用、団地建設に伴う発掘)を辿りつつ、文明9年(1477年)の銘を持つ巨大な一文字手水鉢を主役とした庭園美を詳述しています。苔と白砂、そして直線的な意匠が織りなす「遠州好み」の空間構成と、薄暗い客間から眺める静謐な光景を格調高く記述しております。
御香宮神社に着いたのが午後4時少し前であったため、境内は後回しとしまずは御香宮神社庭園へと向う。ひと回りしたがそれらしき庭園は見当たらず、社務所に行くと拝観受付とあった。土間をあがり中に入ると客間らしい部屋があり、その先に庭園が広がっていた。すでに他の拝観者の姿も無く、部屋の照明も消された状態であったため、どこまでが公開されているかよく分からなかった。ほどなく説明のテープが回り始めた。
近江小室藩の初代藩主である小堀政一こと小堀遠州は元和9年(1623)に第6代目の伏見奉行に就任し、豊後橋(現在の観月橋)の北詰にあたる地に新しい奉行所の造営とともに庭園を作庭した。遠州は寛永11年(1634)3代将軍徳川家光の上洛時に伏見奉行所に将軍を迎え、褒美を頂いたといわれている。この後も伏見奉行を務めながら茶の湯三昧に過ごし、正保4年(1647)伏見奉行屋敷で69歳の生涯を閉じた。
伏見奉行は元和9年(1623)伏見城の廃城後に城代に代わって置かれた役職である。そのため他の遠国奉行(京都、大坂、駿府町奉行や長崎奉行など)と異なり、唯一大名が就任することがあった。これは大名が参勤交代の途中で勝手に入京して朝廷と接触しないように伏見宿及び淀川河岸を監督する重要な役割を担っていたからとも思われる。また京都所司代や京都町奉行とのつながりも強く、京都での大事の際には支援に駆けつける事もあった。しかし日常は巨椋池の漁業権争いや舟運を扱う商人間の争いなどを裁き、江戸時代の港町伏見の発展を支えてきた。伏見奉行は慶応3年(1867)林忠交を最後の奉行として終わる。
いかなる経緯を辿り、伏見奉行所の庭園がこの社務所へと移されたのであろうか。慶応4年1月3日の鳥羽伏見の戦で御香宮神社の薩摩藩軍の砲撃により、伏見奉行所は破壊された。奉行所跡は、帝国陸軍第16師団隷下工兵第16大隊に引き継がれ、敗戦後は米軍桃山キャンプとして進駐軍が使用してきた。昭和32年(1957)に現在の京都市営桃陵団地が建設され始めたころに、奉行所庭園の遺構が石垣などと共に発見された。現在の庭園はこの時の庭石などを移し、中根金作が新たに作庭したものである。
庭園は客間の東側に奥深く広がっている。北側は客間からの縁側が雁行しながら続き、その先にも和室があるように見える。南側は連子格子の入った窓が真直ぐに延びる。客間との間には戸が入っているが、開けて奥を覗いてみると幅の狭い廊下となっていることが分かる。おそらくこちら側の奥にも和室があるのだろう。しかし現在、この廊下は物置として使用しているようだ。この庭は客間を中心に三方向を建物によって囲まれている。さらに客間の近く北と南に大きな樹木が配されているため、客間から庭を見ると手前は樹影で暗く、奥に明るく開いた構図が強く現れている。この庭の印象を特徴付けているものは客間右側中段に配された方形の大型手水鉢であろう。手水鉢としては異形であり、なおかつ大型である。文明9年(1477)の銘が刻まれたこの手水鉢は、鳥羽伏見の戦いで焼け落ちた奉行所にあったことを思い起こさせるように黒く、この庭の中で存在感を発している。遠州が伏見奉行所の庭を作ったのが元和9年(1623)頃とすると既にそれ以前から存在いたこととなる。また文明9年は応仁元年(1467)から続いてきた応仁の乱が終息した年でもある。戦国時代が終わり徳川の時代が始まりを象徴することを意図してこの手水鉢を置いたのかもしれない。
この庭は明らかに客間から見られることを意識して作られている。客間の縁側のすぐ下から緑の美しい苔が始まり、その中を横一文字に玉石敷きの露地が走る。露地は直角に折れて手水鉢の足元へと続く。これも手水鉢を引き立てるための演出である。そして露地の先あたりで苔の中に白砂が侵入してくる。全て白砂になったあたりに今度は小さな石によるボーダーが露地と平行に引かれる。若干であるがこのボーダーを境に庭面は下がる。方形の手水鉢を中心にこの3本の直線が庭を支配していることが分かる。
小雨模様のやや暗い天気の中、照明が消された客間から庭を鑑賞させていただいた。帰った後、他の方の撮影した写真を見て驚いた。実は北側の先に見える和室までが公開範囲だったように見える。事前にあまり調べず、駆け込みで拝観したのが失敗であったようだ。今度訪れるときは、もう少し先まで見に行くこととする。










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