放生院
真言律宗 放生院(ほうじょういん) 2008/05/11訪問
Overview
This article chronicles a visit on May 11, 2008, to “Hojo-in Temple,” a Buddhist sanctuary of the Shingon-ritsu sect that has historically served as the guardian of the famous Uji Bridge. The report traces the temple’s origins back to the 7th century, linking its development with the initial construction of the bridge in 646 AD and its later revival by the monk Eison in the 13th century. A central focus is the “Uji Bridge Stele” (Ujibashi-danpi), one of Japan’s three oldest stone inscriptions. The author reflects on the stele’s rediscovery during the Edo period and its subsequent restoration based on historical texts. Capturing the solemn atmosphere of the morning temple grounds, the narrative offers a contemplative look at how this temple has preserved the bridge’s spiritual and physical integrity for over a millennium.
概要
本稿は2008年05月11日に、宇治橋の東詰に位置し、古くから橋の守護と管理を担ってきた真言律宗の寺院「放生院(ほうじょういん)」を訪問した際の記録です。聖徳太子の発願、秦河勝による建立という伝承から、大化2年(646年)の道登による宇治橋架橋、さらに鎌倉時代の叡尊による再興に至るまで、宇治川の水運と橋の安全に深く関わってきた歴史を紐解きます。特に、日本三古碑の一つに数えられる国重要文化財「宇治橋断碑(うじばしだんぴ)」の発見と復元の経緯、そして訪問時に目にしたブルーシートに包まれた痛々しくも神秘的な断碑の姿を中心に、宇治の精神的拠点としての寺院の佇まいを記述しております。
京阪本線淀駅から中書島で乗り換え、京阪宇治線の宇治駅に出る。京阪宇治線の西側を宇治川が流れているため、宇治駅を出ると目の前に宇治橋が架かる。橋を渡らず宇治川の東側に沿って走る道に入り、50メートルほど進むと左手に放生院の山門が現れる。
放生院は、山号を雨宝山 寺号を常光寺という真言律宗のお寺である。宇治橋を管理する守り寺とされていることから、通称“橋寺放生院”でよばれていた。
推古天皇12年(604)に聖徳太子の発願により、秦河勝が太子の念持仏である地蔵菩薩像を祀る地蔵院を建てたのがはじまりという。宇治橋架橋の由来を記した宇治橋断碑によれば、大化2年(646)大和の元興寺の僧道登によって宇治橋は架けられた。その際に安全祈願のために地蔵院舎も造りかえられたので、この時を以て実質的な創建と伝わっている。
元軍が対馬・隠岐に襲来してきた弘安4年(1281)大和・西大寺の僧叡尊が新たな地蔵菩薩像を造り再興した。西大寺は真言律宗総本山である。さらに弘安9年(1286)に行われた宇治橋の架け替えで失われた人馬の霊を慰めるため、中洲に石造の十三重塔を建立し、放生会を営んだ。後宇多天皇より300石の寺領が放生院に与えられ宇治橋の管理を放生院に任せられた。
応仁元年(1467)から続いた応仁の乱も文明9年(1477)に終息し、文明11年(1479)室町幕府の援助などにより復興されたが、江戸時代の寛永8年(1631)にも火災に遭い焼失した。現在の本堂はその後に再建されたものである。
山門をくぐると美しい石段が始まる。石段を登りきると放生院の境内が広がる。左に本堂、そしてその本堂左前には風雨から守るため覆屋の中に収められた宇治橋断碑が置かれている。正面に十二支の守本尊を祀る小堂、右に橋かけ観音石像。
宇治橋断碑は多胡碑(群馬県)、多賀城碑(宮城県)とともに日本三古碑の一つであり、寛政3年(1791)に境内の地中から上部3分の1の部分が発見された。そのため断碑といわれている。ここには27文字が記されている。現在、この碑は天平時代(729~748)に作られたものではないかと推定されている。宇治橋が架橋された大化2年(646)から75年以上後にその由来を記した碑が作られたということだ。発見直後の寛政5年(1793)に、鎌倉時代に編纂された歴史書「帝王編年記」に記されていた原文の96文字をもとに残部(下部3分の2)を補い、現在の姿に復元された。
宇治橋断碑は覆屋の中にブルーシートに包まれているように見えた。どのような理由か分からないが、養生用のブルーシートに覆われたその姿は、重要文化財としての威厳を隠し、どこか痛々しさを感じさせるものであった。京都北山アーカイブズ撮影鑑二(現・京都府立京都学・歴彩館所蔵の古い写真資料)には宇治橋断碑の明治14年(1882)の写真がある。覆屋のない時期のものである。
まだ8時前のため宇治橋断碑も本堂内部に安置されている地蔵菩薩像も拝観できなかった。現在は石段から直接宇治川を眺めることは困難であるが、昔はよい眺望だったことと思う。












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