カテゴリー:京都淀
本稿は2008年05月11日に、京都と大阪を結ぶ水陸の要衝に築かれた「淀城(よどじょう)」を訪問した際の記録です。茶々(淀殿)ゆかりの室町・桃山期の「淀古城」と、徳川幕府が伏見城の廃城に伴い西国支配の拠点として築いた江戸期の「淀城」という二つの歴史的層を対比させています。特に、慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いにおいて、幕府の重職を務めた稲葉氏の淀藩が新政府軍に恭順し、敗走する幕府軍に対して城門を閉ざした「歴史的拒絶」の瞬間と、その責任を取って自刃した田邊治之助の悲劇に焦点を当てています。朝鮮通信使の船着場「唐人雁木」の記憶や、廃城後の変遷を含め、時代の転換点としての淀城の役割を詳細に記述しております。
本稿は2008年05月11日に、鳥羽・伏見の戦いにおいて幕府軍の退路となった交通の要衝「納所(のうそ)」と「淀小橋(よどこばし)」の跡地を訪問した際の記録です。かつての宇治川に架かっていた全長120メートルを超える淀小橋の痕跡を、現在の府道の高低差や地勢から探り出し、当時の広大な河川景観を考察しています。慶応4年1月5日、鳥羽・伏見の両方面から敗走してきた幕府軍がこの納所に集結しながらも、頼みの淀藩に門を閉ざされ、絶望の中で橋本へと撤退を余儀なくされた歴史的転換点の悲哀を格調高く記述しております。
本稿は2008年05月11日に、新選組六番隊組長・井上源三郎の首級と刀が埋められたと伝えられる「埋葬推定地」を訪問した際の記録です。慶応4年(1868年)1月5日の千両松の戦いで戦死した源三郎。その甥であり若干12歳で伯父の首を抱えて撤退した井上泰助の悲痛なエピソードを軸に、長らく不明とされていた埋葬場所が、遺族の記憶と執念の調査によって「淀の欣浄寺(廃寺)」跡付近であると特定されていく過程を詳細に紐解きます。日野の試衛館時代から続く絆と、時を越えて語り継がれた家族の記憶が、現在の淀の町並みの中でどのように結実したのかを格調高く記述しております。
本稿は2008年05月11日に、鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)における激戦地・千両松での戦死者を祀る「八番楳木(はちばんうめき)東軍戦死者埋骨地」を訪問した際の記録です。慶応4年(1868年)1月5日、新選組や会津藩別選隊が壊滅的な打撃を受けた「千両松の戦い」の歴史的背景を詳述しています。氏名不詳のまま葬られた多くの旧幕府軍兵士たちの悲哀や、昭和45年に建立された慰霊碑に刻まれた「一瞬の時差により(官軍か幕軍か分かれた)」という客観的かつ情けある歴史認識に着目しています。また、京都競馬場の拡張工事に伴う「新選組の幽霊騒動」と供養のエピソードを交え、今なおこの地に漂う動乱期の記憶を格調高く記述しております。
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