徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

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宇治神社

 

本稿は2008年05月11日に、宇治川右岸に鎮座し、古くは「離宮下社」として宇治上神社と一体であった「宇治神社(うじじんじゃ)」を訪問した際の記録です。祭神である菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が、兄である仁徳天皇に皇位を譲るために自ら命を絶ったという悲劇的かつ高潔な『日本書紀』の伝承を軸に、かつての離宮「菟道宮(うじのみや)」の跡地とされる聖域の歴史を紐解きます。平安時代には平等院の鎮守社として、また藤原氏の庇護下で華やかな「離宮祭」が執り行われた宇治の産土神としての誇りと、明治期の分社を経て今日に至るまでの変遷を格調高く記述しております。

 

興聖寺

 

本稿は2008年05月11日に、日本における曹洞宗最初の寺院である「興聖寺(こうしょうじ)」を訪問した際の記録です。道元禅師によって伏見・深草に開創され、後に慶安2年(1649年)に淀藩主・永井尚政によって現在の宇治の地に復興された歴史的背景を詳述しています。宇治十二景の一つ「興聖晩鐘」を象徴する鐘楼や、新緑が美しい「琴坂(ことざか)」の情緒、そして伏見城の遺構を伝える「血天井」の逸話など、随所に歴史の重みを感じさせる伽藍の構成に焦点を当てています。竜宮門をくぐった先に広がる、中国風の色彩を帯びた前庭や石組みの配置を鋭く観察し、曹洞宗の端厳なる修行の場の空気感を格調高く記述しております。

 

塔の島と橘島

 

本稿は2008年05月11日に、宇治川の中州に浮かぶ二つの島、「塔の島(とうのしま)」と「橘島(たちばなじま)」を訪問した際の記録です。国内最大の古石塔である重要文化財「十三重石塔」が象徴する叡尊の殺生禁断と供養の精神、そして『平家物語』の名場面として知られる佐々木高綱と梶原景季の「宇治川の先陣争い」の故事を軸に、宇治川の歴史を紐解きます。度重なる洪水によって埋没した石塔の再興や、治水工事と天ヶ瀬ダムの建設といった現代に続く河川との闘いの歴史を交え、伝説と現実の地形が交差するこの地の魅力を格調高く記述しております。

 

縣神社

 

本稿は2008年05月11日に、平等院の鎮守社として知られ、宇治の地主神を祀る「縣神社(あがたじんじゃ)」を訪問した際の記録です。祭神である木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)にまつわる「吾田(あた)」の地名由来や、平安時代の『蜻蛉日記』に描かれた歴史的背景を紐解きます。藤原頼通による平等院建立以前から続く古社としての格式と、毎年6月に執り行われる「暗闇の奇祭」として名高い縣祭(あがたまつり)の神秘的な様相に焦点を当て、宇治の精神文化の深層を格調高く記述しております。

 

橋姫神社

 

本稿は2008年05月11日に、宇治橋の守護神として知られる「橋姫神社(はしひめじんじゃ)」を訪問した際の記録です。宇治橋の架橋(646年)とともに橋の「三の間」に祀られた瀬織津比咩尊(せおりつひめのみこと)を主祭神とし、水の神である住吉明神を併祀するこの神社の由来を紐解きます。川の穢れを浄める「祓戸(はらえど)の四神」としての性格や、櫻谷・櫻の馬場といった今は失われた風雅な地名、そして明治期の洪水を経て現在の地に移された変遷を詳述しています。静かな参道に佇む小さな社の背景にある、水と共に生きる宇治の信仰の歴史を格調高く記述しております。

 

宇治橋

 

本稿は2008年05月11日に、日本三古橋の一つとして名高い「宇治橋(うじばし)」を訪問した際の記録です。大化2年(646年)の創始に遡る悠久の歴史と、平成8年(1996年)に伝統的な桧造りの意匠で架け替えられた現代の姿を対比させています。橋の守り神「橋姫」を祀り、かつて豊臣秀吉が茶の湯の水を汲ませたと伝わる張り出し部分「三の間」の風情や、西詰に立つ紫式部像に対する批評的な考察を交え、宇治川の滔々たる流れとともに刻まれてきた物語の世界を情緒豊かに記述しております。

 

放生院

 

本稿は2008年05月11日に、宇治橋の東詰に位置し、古くから橋の守護と管理を担ってきた真言律宗の寺院「放生院(ほうじょういん)」を訪問した際の記録です。聖徳太子の発願、秦河勝による建立という伝承から、大化2年(646年)の道登による宇治橋架橋、さらに鎌倉時代の叡尊による再興に至るまで、宇治川の水運と橋の安全に深く関わってきた歴史を紐解きます。特に、日本三古碑の一つに数えられる国重要文化財「宇治橋断碑(うじばしだんぴ)」の発見と復元の経緯、そして訪問時に目にしたブルーシートに包まれた痛々しくも神秘的な断碑の姿を中心に、宇治の精神的拠点としての寺院の佇まいを記述しております。

 

淀城

 

本稿は2008年05月11日に、京都と大阪を結ぶ水陸の要衝に築かれた「淀城(よどじょう)」を訪問した際の記録です。茶々(淀殿)ゆかりの室町・桃山期の「淀古城」と、徳川幕府が伏見城の廃城に伴い西国支配の拠点として築いた江戸期の「淀城」という二つの歴史的層を対比させています。特に、慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いにおいて、幕府の重職を務めた稲葉氏の淀藩が新政府軍に恭順し、敗走する幕府軍に対して城門を閉ざした「歴史的拒絶」の瞬間と、その責任を取って自刃した田邊治之助の悲劇に焦点を当てています。朝鮮通信使の船着場「唐人雁木」の記憶や、廃城後の変遷を含め、時代の転換点としての淀城の役割を詳細に記述しております。

 

納所と淀小橋

 

本稿は2008年05月11日に、鳥羽・伏見の戦いにおいて幕府軍の退路となった交通の要衝「納所(のうそ)」と「淀小橋(よどこばし)」の跡地を訪問した際の記録です。かつての宇治川に架かっていた全長120メートルを超える淀小橋の痕跡を、現在の府道の高低差や地勢から探り出し、当時の広大な河川景観を考察しています。慶応4年1月5日、鳥羽・伏見の両方面から敗走してきた幕府軍がこの納所に集結しながらも、頼みの淀藩に門を閉ざされ、絶望の中で橋本へと撤退を余儀なくされた歴史的転換点の悲哀を格調高く記述しております。

 

井上源三郎埋葬推定地

 

本稿は2008年05月11日に、新選組六番隊組長・井上源三郎の首級と刀が埋められたと伝えられる「埋葬推定地」を訪問した際の記録です。慶応4年(1868年)1月5日の千両松の戦いで戦死した源三郎。その甥であり若干12歳で伯父の首を抱えて撤退した井上泰助の悲痛なエピソードを軸に、長らく不明とされていた埋葬場所が、遺族の記憶と執念の調査によって「淀の欣浄寺(廃寺)」跡付近であると特定されていく過程を詳細に紐解きます。日野の試衛館時代から続く絆と、時を越えて語り継がれた家族の記憶が、現在の淀の町並みの中でどのように結実したのかを格調高く記述しております。

 
 

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