錦市場 その2
錦市場(にしきいちば)その2 2008/05/14訪問
Overview
This second installment of the Nishiki Market chronicle, based on a visit on May 14, 2008, delves into the market’s evolution from the Edo period to the modern era. It highlights a critical turning point in the 18th century when the market faced closure due to intense competition and political maneuvering. The central figure in this struggle was the legendary painter Ito Jakuchu, who was born into a prominent greengrocer family in Nishiki. The author details Jakuchu’s three-year hiatus from his art to lead a tenacious legal battle with the magistrate to secure the market’s official recognition. From the abolition of merchant privileges during the Meiji Restoration to the establishment of the central wholesale market in the Showa era, the text illustrates how Nishiki Market has survived numerous historical challenges to remain the beloved “Kitchen of Kyoto.”
概要
本稿は、2008年5月14日に訪れた京都「錦市場」の歴史を、特に江戸時代から現代にかけての変遷に焦点を当てて綴った続編です。かつて幕府公認の「三店魚問屋」として独占的営業を許されていた錦小路が、江戸中期にライバル市場との争いにより存続の危機に立たされた際、私財と情熱を投じて市場を救った絵師・伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)の知られざる功績を詳述しています。青物問屋「枡屋」の主としての若冲の奮闘、そして明治維新後の特権廃止、昭和の卸売市場移転といった時代の荒波を乗り越え、今日まで「京の台所」としての賑わいを守り抜いてきた市場の逞しい歩みを描き出しています。
錦市場は鎌倉時代以降は商工業街として発展した。室町時代には、酒屋をはじめとする多種多様な職種が存在した。しかし文明年代(1469~1486)に応仁の乱により錦小路も衰退する。再興されたのはおよそ100年後の天正年代(1573~1593)のことであった。
錦小路が魚鳥の市場となったのは豊臣秀吉の天下統一後と考えられている。この地の人口が多いこと、御所への納入が容易であったこと、そして清く冷たい地下水が涌き出ることが、この地に市場が生まれるもととなっている。
錦市場の公式HPによると本格的な魚市場となったのは江戸時代に入ってからである。元和年間(1615~1623)幕府より魚問屋の称号が許され、万治・寛文(1658~1672)の頃、上の店、錦の店、六条の店の3ヶ所が最も繁栄を極め、三店魚問屋と呼ばれた。特に錦小路の商人は、公儀から鑑札を得ることにより独占的な営業が行われていた。明和7年(1770)錦小路高倉に青物立売市場が奉行所により認められ、安永8年(1779)魚問屋のそばに野菜の市場が開かれた。
この時期、錦市場の存続の危機を救ったのが画家の伊藤若冲であった。若冲は正徳6年(1716)に錦小路にあった青物問屋「枡屋」の長男として生まれている。当時の問屋は小売を行わず、生産者や仲買人・小売の商人に場所を提供し売場の使用料を徴収することを生業としていた。若冲が23歳のとき、父が亡くなり4代目枡屋源左衛門を襲名している。若冲が絵師として自立するのは宝暦5年(1755)の隠居後であった。 若冲の前半生は枡屋の当主として青物問屋の切り盛りに注力してきた。さらに隠居後も作画三昧の日々を送っていたとはいかなかったようだ。明和8年(1771)には枡屋があった中魚町の隣町である帯屋町の町年寄を勤めるなど、町政に関わりを持っていたことが近年分かってきた。この時期、同業の五条問屋市場の工作により奉行所は錦市場の営業を停止させる方向で動いていた。明和9年(1772)1月には錦高倉の青物市場に禁止命令が出る。翌2月、錦高倉市場は冥加銀16枚の上納することで一旦は再開にこぎつけるが、再び7月に入り五条問屋市場が冥加銀30枚を出して再び錦市場に営業差し止めが下る。若冲は壬生村など青物を売る農民たちに市場の必要性を奉行所に訴えさせた上、安永3年(1774)8月に公認を勝ち取った。その際、冥加銀を年35枚を出すことになった。錦市場の項では、単に「錦市場が公認される」と記したが、その裏には奉行所による営業停止の命令を覆しその後の営業を続ける権利を勝ち得たことであった。そしてそれに尽力したのが伊藤若冲であった。奉行所との交渉を行った凡そ三年間、若冲には作品がなかったとされているので、いかに錦市場の存続に注力したかが分かる。なおこの経緯については「京都錦小路青物市場記」として、若冲の子孫がまとめている。
現在、錦市場のシャッターには伊藤若冲の代表作品が描かれている。若冲が錦小路の出身というだけでなく、錦小路にとって中興の祖であったことへの後世からの感謝のカタチであったことが理解できた。
明治維新とともに三店魚問屋の特権も廃止され、魚問屋も自由に営業できるようになった。これにより同業者間の競争が激しくなり、倒産する店が相次ぎ、明治16年(1883)頃には7店程になったとも言われる。同業組合等を設けることで過度の同業競合を避け、再び繁栄を取り戻すことができた。やがて商店街振興組合につながっていった。
昭和2年(1927)に下京区朱雀分木町に京都中央卸売市場が開設されたことで、錦の卸売業者の多くも移転した。錦小路に残った店と新しく入った店々の協力により、戦後の移り変わりの激しさにも耐え、錦小路は京の台所の位置付けを守ってきた。


















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