錦市場
錦市場(にしきいちば) 2008/05/14訪問
Overview
This article chronicles a visit to Nishiki Market, known as “Kyoto’s Kitchen,” on May 14, 2008. The narrative traces the history of the street back to the founding of Heian-kyo in the late 8th century, exploring the transition of its name from “Gusoku-koji” to “Nishiki-koji.” The author recounts a fascinating legend from the *Uji Shui Monogatari* involving the monk Seitoku, which led to the street’s renaming by the Emperor in 1054. Highlighting its development as a fish market blessed with abundant groundwater, the text details how Nishiki Market became an officially recognized wholesale district during the Edo period. Through descriptions of the 390-meter-long arcade, the report captures the enduring vitality and deep historical roots of Kyoto’s most famous food market.
概要
本稿は2008年5月14日、京の台所として親しまれる「錦市場(にしきいちば)」を訪れた際の記録です。平安京開闢直後にまで遡る通りの歴史を紐解き、かつて「具足小路」と呼ばれた道が、宇治拾遺物語に記された「清徳聖(せいとくひじり)」の奇妙な説話を経て「錦小路」へと改称された由来を詳述しています。豊富な地下水に恵まれた立地から魚市場として発展し、江戸時代に幕府から公認された特権的な魚問屋としての歩みを紹介。約1,300年の時を経て、今なお活気あふれるアーケード街に並ぶ多彩な店舗の様子と、京都の食文化を支え続けてきた市場の精神を伝えています。
四条堺町通の市原平兵衞商店から四条通を越え、堺町通を北に進むとすぐに京の台所、錦市場のアーケードに当たる。昭和38年(1963)に京都錦市場商店街振興組合が設立し、現在では寺町通から高倉通までの全長三百九十メートルの道沿いに生鮮食品を中心とした約百三十の店舗が並ぶ。
東側は寺町に始まり、西は大宮西入るまでの部分に道が作られたのは延暦年代(782~806)のことだと言われている。つまり延暦13年(794)の平安京開闢直後には、この地に町が形成されていたということが分かる。もともと具足を売る店が並んでいたため、具足小路と呼ばれていた。その後訛って、くそ小路と呼ばれたこともあったらしい。
宇治拾遺物語の第19話 清徳聖奇特の事の説話の中にはその由来に関するものが載っている。
昔、清徳聖という聖がいた。母親が亡くなったので、亡骸を納めた棺を愛宕山に運び、寝食を忘れて3年間念仏を唱え続けた。すると「お前の上げてくれた念仏のおかげで成仏できた」という母親の声が聞こえたので、棺を焼き、骨を集めて埋め、その上に石の卒塔婆を建てた。
京へ戻る途中、お腹が空いてたまらなくなった清徳は、田のふちの水葱(なぎ 水草の一種)を何本か食べてしまった。信心深い農家の主は、聖が生の水葱を食べているのを見て、どうぞ好きなだけ召し上がれと勧めた。清徳は飽きることなく三町歩もある田の水葱を全部食べてしまった。農家の主は驚き米一石を炊いて運んで来た。清徳はこれも全て食べ、礼を言って都の中へと向って行った。
農家の主は役所に事の次第を届けたため、時の右大臣 藤原師輔の知るところとなり、清徳は邸に連れて来られた。師輔には清徳の後ろに餓鬼・畜生・異形の者が連なっているのが見えるが、他の役人や町の人々には清徳ひとりしか見えなかった。師輔は家来に命じて米十石を炊かせた。師輔の眼には、清徳は一口も食べず異形の者たちが貪るように食べる光景が見えた。真の聖、仏が身を変えてお出でになったと師輔は感じ入ったが、他の者には 清徳ひとりが食べているとしか見えなかった。
師輔の邸を出た一行は、四条通のひとつ北の道へ入った。清徳の後ろの者たちは水葱と御飯で膨れたお腹からいっせいに屎をたれ、何処ともなく去って行った。町の人々は汚がって、この通りを くその小路と呼ぶようになった。
この話が広まって、天皇の御耳にも入ることとなった。天皇は御付きの者に四条のひとつ南の通りが「綾の小路」ならば、ひとつ北の通りを「錦の小路」と呼ぶようにと申し付けた。
天喜2年(1054)に後冷泉天皇の宣旨によって、具足小路は錦小路に改称された。
この地に市場が起きたのは平安時代のこととされている。京都錦市場商店街のHPでも、
正式な記録によるものではありませんが、市場としての起こりは古く平安時代のころ、すでにこのあたりに市が立っていたと推測されています。
と記している。豊富な地下水を利用して新鮮な魚を売る店が比較的早い時期から集まっていたことが市場の形成につながったのであろう。元和元年(1615)幕府より魚問屋の称号が許され、上の店、錦の店、六条の店が京都の特権的鮮魚市場として三店魚問屋となった。これが正式な魚の卸売りの始まりとも言える。明和7年(1770)奉行所から錦小路高倉の青物立売市場が認められ、ついに安永3年(1774)錦市場が奉行所より公認された。

















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