徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

百々橋



百々橋(どどばし) 2008/05/13訪問

Overview

This article covers a visit on May 13, 2008, to the historic site of Dodo-bashi Bridge, a pivotal location during the Onin War. The journey begins near the Ashikaga Shogunate’s Muromachi-dai, passing the Daisho-ji Monzeki temple, an elite nunnery with deep ties to the Imperial family and the Ashikaga clan. The author traces the remnants of the Kokawa River, which was covered over in the 1960s, to the intersection of Teranouchi and Ogawa streets, where the Dodo-bashi once stood. This small bridge became famous as the frontline where the Eastern and Western armies clashed in 1467. While only a foundation stone remains at the original site, other parts are preserved at local schools and the Rakusai Bamboo Park. The narrative also reflects on Oda Nobunaga’s brutal efficiency in reusing Buddhist statues as building materials for the “Old Nijo Castle” nearby, showcasing the turbulent layers of Kyoto’s history.

概要

本稿は2008年5月13日、足利将軍ゆかりの地から「応仁の乱」の激戦地として知られる「百々橋(どどばし)」の跡地を訪ねた際の記録です。花の御所(室町第)の邸内に安禅所として創建され、内親王が代々門跡を務めた「大聖寺門跡」の歴史を紐解きつつ、かつての小川(こかわ)の流れを辿ります。昭和38年頃まで寺之内通小川に架かっていた百々橋が、かつて西軍・山名宗全と東軍・細川勝元が対峙した戦乱の象徴であったことを詳述。現在は暗渠化され、一部の礎石が現地や小学校、洛西竹林公園に分散保存されている現状を記すとともに、織田信長による旧二条城築城の際の「石仏転用」という衝撃的な歴史エピソードにも触れています。

画像
百々橋の礎石 寺之内通小川

 足利将軍室町第址の碑み右手に見ながら、室町通を北へ入る。2本目の通り右に曲がると烏丸通に面した大聖寺門跡の山門が角に見える。

 大聖寺門跡は臨済宗相国寺派の尼門跡寺院で山号は岳松山。義満の正室の叔母にあたる日野宣子は、無学祖元の弟子・意翁円浄に参禅し、貞治7年(1368)に出家して、大聖院無相定円尼と号した。将軍義満は安禅所として室町邸内に建てられた岡松殿に無相定円尼を迎えた。永徳2年(1382)57歳で亡くなると、その遺言に従い岡松殿を法名にちなんで大聖寺とした。創建以来、応仁の乱等の兵火に度々遭い移転を重ね、長谷(現在の岩倉長谷街)から、文明11年(1479)毘沙門町に移り、再び創建の地に戻ったのは元禄9年(1696)のことだった。大聖寺は光格天皇の皇女 普明浄院にいたる二十四代、約四百五十年間は、全て内親王によって受け継がれてきた。また明治維新以後も内親王に代わり公家華族の息女が門跡を継いでいる。正親町天皇から尼寺第一位の綸旨を賜り、御寺御所という呼称が許されている。現在の、宮御殿は光格天皇の皇女が入寺した際に千両を下賜されて御所風に建立されたものである。本堂は昭和18年(1943)東京青山御所より移築されたもの。こちらは非公開寺院のため、境内の一部しか伺うことができない。「くみちょー」さんのブログ(旧リンク:http://kata2.wablog.com/84.html)から、境内に花乃御所の碑が建つことが分かる。
 大聖寺と同志社大学寒梅館の前を過ぎたところで、上立売通を西に入る。同志社大学新町キャンパスの北側を越えたあたりを北に進むと正面に妙顕寺が現れる。今回は山門だけを拝見し寺之内通を西に曲がる。小川通との交差点に百々橋の礎石が保存されている。

 寺之内通小川は百々の辻(どどのつじ)と呼ばれ、昭和38年(1963)頃まで小川(こかわ)が流れ、百々橋が架けられていた。現在は暗渠となっているため分かりづらいが、寺之内通小川の南にある報恩寺の門前には石橋が残されている。また寺之内通小川の北にある本法寺の門前にも同様の石橋を見ることが出来る。航空写真から寺之内通より南側は小川通より一軒分、北側はその半分位西側にかつての流れの痕跡が分かる。
 百々橋は四間一分(7.5メートル)幅二間二分(4メートル)と小さな橋である。この橋の名前が現在まで残っているのは、応仁元年(1467)5月,山名宗全と細川勝元が多くの守護大名を巻き込んで起こした応仁の乱に於いて、この橋を挟んで西軍と東軍が対峙し激しい合戦が行われたためである。
 百々橋の四基の礎石は、この場所に一つ、近接する京都市立室町小学校に一つが保存されている。さらに洛西ニュータウンの竹林公園内に二つの礎石と残りの橋の石材によって明治40年(1907)の姿に復元されている。京都市洛西竹林公園の公式HPには百々橋が掲載されている。

 また京都市洛西竹林公園には、地下鉄烏丸線建設のために、昭和50年(1975)から行われた事前発掘調査により確認された旧二条城からの出土品も展示されている。二条城の項足利将軍室町第址の項で触れたように旧二条城は、永禄12年(1569)に織田信長が室町幕府十五代将軍足利義昭のために築造した邸宅である。十三代将軍足利義輝の室町中御門邸跡に約四百メートル四方の敷地に二重の堀や三層の天主を備える城郭を京都の中心に築いた。この工事の際に発掘された石垣には、自然石の他に石仏、供養碑、五輪碑、礎石、建材等が使用されていた。信長にとっては単に足りない石材を補充するため石仏や供養塔を使用しただけであるが、頸に縄をかけられ現場へ引かれていく石仏を見た当時の人は神をも恐れぬ行為に恐怖を感じたことであろう。

「百々橋」 の地図





百々橋 のMarker List

No.名称所在地緯度経度
 百々橋 京都市上京区35.0336 135.7532
01  足利将軍室町第址 京都市上京区35.0291 135.7579
02  大聖寺 京都市上京区35.0309 135.7588
03   報恩寺 石橋 35.0328 135.7534
04   本法寺 石橋 35.0347 135.7531
    

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