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表千家と裏千家



表千家と裏千家(おもてせんけとうらせんけ) 2008/05/13訪問

Overview

This article chronicles a visit on May 13, 2008, to the Omotesenke and Urasenke estates on Ogawa Street in Kyoto. It traces the profound history of Sen no Rikyu, who perfected “wabi-cha” under the patronage and eventual friction of Oda Nobunaga and Toyotomi Hideyoshi. The narrative focuses on how Rikyu’s grandson, Sen no Sotan, revived the family lineage after Rikyu’s ritual suicide. Sotan established the “Fushin-an” teahouse as a sanctuary of minimalist aesthetics and later built “Konnichi-an” for his retirement. The text explains the divergence of the three Sen houses—Omotesenke, Urasenke, and Mushakojisenke—founded by Sotan’s sons, illustrating how each branch preserved Rikyu’s legacy while navigating the evolving social landscape of the Edo period.

概要

本稿は2008年5月13日、京都・小川通に並び立つ茶道の本山「表千家」と「裏千家」を訪れた際の記録です。千利休による「わび茶」の大成と、織田信長・豊臣秀吉という時の権力者との緊張感に満ちた関係、そして利休の切腹という悲劇を経て、孫の千宗旦がいかにして千家を再興・継承させたかの歴史を詳述しています。宗旦が究極のわびの空間として構築した「不審菴(ふしんあん)」と、隠居所に設けた「今日庵(こんにちにあん)」の成り立ち、そして三人の息子たちによって「三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)」が成立した経緯を、茶室の構造や精神性と重ね合わせて描き出しています。

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表千家 表門は文政5年(1822)紀州家よりの拝領

 百々橋の礎石が保存されている寺之内通小川の先には、表千家と裏千家が並ぶ。

 千利休は大永2年(1522)和泉国堺の今市町において、魚問屋を営む堺でも有力な町衆の家に生まれる。利休は幼名を与四郎、後に法名宗易、抛筌斎とも称し、晩年には利休の居士号も用いる。「千」の姓は、利休の祖父田中千阿弥の千の字をとって名乗ったとされている。天文7年(1538)利休は17歳の頃より北向道陳のもとで茶を習い始める。天文9年(1540)道陳を介して武野紹鴎に弟子入りする。紹鴎は村田珠光によって始められたわび茶を発展させ、草庵の茶の湯を確立する。そして禅の要素をとり入れた茶禅一味の思想は当時の茶人達に大きな影響を与えた。利休は紹鴎のもとで茶の修行を積み、堺の豪商今井宗久、津田宗達ら当時を代表する茶人との交流を通じ、茶人としての素養を深めた。
 元亀4年(1573)織田信長によって足利義昭が京都から追放され室町幕府が崩壊する。利休が信長の茶堂(さとう 茶会や茶道具を管理する茶人 )となった正確な時期は分からないが、天正元年(1573)頃には信長に仕えていたと考えられている。信長は茶の湯を嗜むだけではなく、茶の湯を政略的に利用した。特に茶器の蒐集に力を入れ、手柄を立てた家臣には恩賞として名物の茶器が与えられた。領国や禄など有限の資産ではなく、信長により無形の価値が茶器に付与された。これにより名器には一国一城と同等の格付けも可能になった。

 天正10年(1582)本能寺の変で信長が討たれ、豊臣秀吉の世となると、茶堂としての利休の役割に政治的側面が増えていく。この頃、利休は大徳寺門前に屋敷を構え、不審菴を設け、茶の湯活動の拠点とした。天正13年(1585)禁裏で行われた秀吉の関白就任記念茶会において、正親町天皇に茶を献上した秀吉の後見役を利休は務めた。この時期には既に利休の茶の湯は大成の域に達していたと考えられており、正親町天皇より利休居士号を下賜されたことと合わせて、天下一の宗匠としての地位を確立した。
 天正15年(1586)秀吉の聚楽第が完成すると、葭屋町通り元誓願寺下ル町(現在の晴明神社の近隣)に屋敷をつくる。現在の表千家残月亭は、この聚楽屋敷にあった色付九間書院の茶室を写したものといわれている。天下統一をほぼ完了した秀吉は、その権勢を天下に知らしめるため、天正15年(1587)10月1日北野天満宮の境内で北野大茶湯を催す。利休は津田宗及、今井宗久らとともにこの茶会の茶頭を務めた。定御茶湯之事と題された七か条の触書が五条などに出された。この二条目に「茶湯執心の者は身分を問わない。茶道具を持つものは持参し、無い物は替わりになる物を持参して参加すること」と記したため、京はもとより大坂、堺、奈良からも大勢の人々が駆けつけ、千人にも達したと言われている。
 天正17年(1589)12月5日利休の寄進による大徳寺山門 金毛閣の修復が完成し、同8日に聚光院で父の五十回忌の法要を営む。天正19年(1591)突然秀吉の勘気に触れ、2月13日堺への追放令が出される。堺で蟄居となった利休は、再び京へ呼び戻され切腹を命じられる。2月28日聚楽屋敷で切腹し果てた。死後、首は一条戻橋で梟首された。

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表千家 表門
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表千家 表門

 利休の死罪の理由は定かではない。金毛閣の2階に自らの木造を設置し、その下を秀吉に通らせたとも言われているが、それだけが理由とは思えない。利休と秀吉の間には、茶の湯に対する考え方の違いが明らかに生じていた。しかしそれ以前に茶の湯を芸術の域に高めようとする者が、茶の湯を権力の象徴として取り扱おうとする者に対して幻滅を感じたのは間違いない。おそらく天下統一を達成するための道具として茶の湯が扱われることに対しての嫌悪感を利休は抱いていた。そして秀吉にこれ以上ついていくことができないと感じていたと考える。
 政治的には天下統一を果たした秀吉も、茶の湯においては利休の下に位置することに不満を感じていたはずである。利休の茶の湯はほぼ完成し、今後自らがどのような関与をしても変わることがないという現実を知った時、どのように秀吉は感じただろうか。秀吉の性格からすれば、この文化的権威を破壊し再び新しい茶の湯を構築しようと考えたのであろう。北野大茶湯の茶頭を務めた津田宗及は同じ天正19年(1591)に亡くなり、今井宗久もこの時期には秀吉に重用されることがなかったことを考えると、秀吉にとって既存の文化的権威を意図的に排除したようにも考えられる。

 利休の死後、先妻の子である嫡男千道安と後妻の連れ子で娘婿でもある千少庵が残される。
 道安は茶の湯の作為、手法において利休も一目置くほどの茶人であり、秀吉の茶頭八人衆にも数えられていた。秀吉の赦しがでた後、再び堺に戻り千家流の茶の湯をひろめた。慶長12年(1607)道安の死とともに堺千家の血筋は途絶える。
 少庵は母が利休の後妻となったのを機に利休の養子となり千家に入り、利休とともに京において茶をひろめてきた。利休の死後、利休の高弟の会津若松の蒲生氏郷のもとに身を寄せることとなった。少庵の子である宗旦はこの時期、大徳寺で修行をしていた。

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表千家 表門

 利休の切腹から三年が経ち、豊臣秀吉の勘気も解けた文禄3年(1594)少庵は徳川家康、蒲生氏郷の連署状・少庵召出状を受け取り、京に戻ることを許される。環俗した宗旦とともに現在の小川通の東に千家の再興を果たす。没収されていた利休の茶器も宗旦の元に返される。そして宗旦は寛永10年(1633)頃に一畳半の茶室不審菴を建てる。この床なしの一畳半は極限の空間であり、わび茶の到達した究極の姿でもあった。一畳半の茶室は既に利休も試みている。しかし秀吉に嫌われたため二畳敷に改めている。宗旦はそのような茶室を徳川の時代に改めて建て、不審菴と称し千家の茶の象徴とした。正保3年(1646)に隠居し、家督を三男の江岑に譲り不審菴を継がせた。江岑は宗旦と諮り、新たに三畳台目の不審菴を建てた。以後不審菴は表千家で受け継がれていくが、天明8年(1788)の大火と明治38年の火災で焼失している。現在の不審菴は大正2年(1913)に、以前の姿に従い忠実に再建されたものである。
 隠居した宗旦は屋敷の北に一畳台目の今日庵を建て四男の仙叟宗室を連れて移り住む。承応2年(1653)に四畳半の茶室を新築し、再び隠居する。この茶室は又隠れるということから又隠と名付けられる。後に屋敷を宗室に譲り、宗室が裏千家を興した。又隠も天明の大火で焼失したため、現在に残る茶室は後に再建されたものである。この又隠は利休の聚楽屋敷に作られた四畳半の写しだとも考えられている。宗旦は不審菴とともに又隠を作ることにより利休の足跡を後世に残そうとしたのかもしれない。
 なお裏千家と表千家は小川通からの位置関係で名付けられたものである。

 宗旦の次男宗守は、はじめ塗師を志し吉文字屋に養子に入るが、のちに家業を女婿の中村八兵衛(初代宗哲)に譲り、武者小路小川の地に武者小路千家を興す。宗守は四国高松の松平家の茶堂として出仕した。茶室官休庵は父宗旦と相談した際に名付けられたと伝わる。宗守の百年忌の時、大徳寺第三百九十世眞巌宗乗和尚により書かれた頌から官休庵の名のいわれが伝わる。

     古人云官因老病休 翁者蓋因茶休也歟

茶に専念するために官を辞めたのであろうと解釈されている。このようにして利休の死後宗旦の元から3つの千家が生まれた。

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裏千家 表門

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表千家 表門

「表千家と裏千家」 の地図





表千家と裏千家 のMarker List

No.名称所在地緯度経度
01  表千家 不審菴 京都市上京区本法寺前町35.0342 135.7537
02  裏千家 今日庵 京都市上京区本法寺前町35.0346 135.7536
03  百々橋 京都市上京区35.0336 135.7532
    

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