徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

新島襄旧邸



新島襄旧邸(にいじまじょうきゅうてい) 2008/05/13訪問

Overview

This article recounts a visit to the former residence of Joseph Hardy Neesima (Jo Niijima) on May 13, 2008. As the founder of Doshisha University, Neesima’s life was marked by his daring escape from Japan during the Edo period and his subsequent role as a pioneer in modern education. The text contrasts his success with the tragic fate of Taro Kusakabe, a brilliant student from Fukui who died in the U.S. just before graduation. It also details the architectural significance of the residence—a colonial-style exterior built with traditional Japanese techniques in 1878. Furthermore, the narrative weaves in the story of Neesima’s wife, Yae, and her connection to the early education of women in Kyoto, highlighting the intertwined legacies of these Meiji-era pioneers.

概要

本稿は2008年5月13日、京都・寺町通に位置する「新島襄旧邸」を訪ねた際の記録です。同志社英学校の創立者・新島襄の波乱に満ちた生涯を、函館からの密出国、アメリカでの日本人初の学士号取得、そして岩倉使節団への同行といった歴史的足跡とともに詳述しています。同時期に渡米し客死した福井藩士・日下部太郎の悲劇と対比させながら、明治という新しい時代を切り拓いた若者たちの熱量に光を当てています。また、明治11年(1878)竣工の旧邸が持つ和洋折衷の建築的特徴や、妻・八重と京都府立鴨沂高等学校(旧・女紅場)との意外な縁についても、情緒豊かに考察しています。

画像
新島襄旧邸

 梨木神社の鳥居をくぐり、清和院御門の前の広場に再び出る。寺町通を南下する。右手は京都御苑の清和院駐車場が細長く続く。駐車場のさらに奥は仙洞御所である。単調な景色が続くので、府立鴨沂高等学校の角で左に入り、寺町通の一本東の新烏丸通を南下する。

 明治5年(1872)新英学級及女紅場が、日本で最初の女学校として旧九条殿河原町邸に設立した。女紅は、紡績・裁縫・刺繍など女性の仕事、またはその製品を意味する言葉である。明治9年(1876)に女学校及紅場と改称され、明治33年(1900)九条殿の茶室と正門を持って、九条殿河原町邸から現在の地に移った。そして大正12年(1923)に京都府立京都第一高等女学校と改称された。京都府立鴨沂高等学校となったのは昭和23年(1948)戦後の学制改革による。鴨沂は「おうき」と読み、沂には“きし、ほとり”と言う意味があるので、おそらく鴨川の畔という地理的な言葉と思われる。
 ところで旧九条殿河原町邸はどこにあったのだろうか。九条殿は、閑院宮とともに御所内の南西にあったが、河原町邸は別のものと思われる。鴨川に架かる丸太町橋の西詰めに、昭和7年(1932)[ 京都鴨沂会が創立六十周年を記念して建てた碑 [ ahref.004 ]]が現在も残っている。この碑より、“本邦高校女学校之濫觴”である女紅場址が南西百五十メートルあたりに存在していたことが分かる。濫觴とは難しい言葉だが物事の起こり、起源という意味を持っている。すなわち九条殿河原町邸は碑の示す地に存在しており、そして現在の京都府立医科大学病院の敷地付近から鴨川にかけてであったと考えられている。時代は少し下り、明治28年(1895)に制作された京都市圖の丸太町橋の西詰めに高等女学校の名称が見える。碑のあった一角が敷地であったと考えてもよいようだ。
 府立鴨沂高等学校を通りすぎ、そのまま新烏丸通を南下する。京都市歴史資料館を過ぎたところを西に曲がり再び寺町通に出た角に新島襄旧邸がある。

 新島襄は同志社英学校の創立者であり、福澤諭吉と並ぶ明治を代表する教育家の一人である。新島は天保14年(1843)江戸神田の上州安中藩板倉家江戸屋敷(現在の学士会館の地)で、藩士の子として生まれる。元服後、安中藩士となるが元治元年(1864)、アメリカ合衆国への渡航を決意する。吉田松陰が海外渡航に失敗し自訴したのが、嘉永7年(1854)のペリー艦隊が下田に再訪した時のことである。襄の決断は松陰より十年後のことであった。松陰が文政13年〈1830〉生まれであったことからも、この時間差は、単に生まれた年代の違いであった。 新島は先ず函館に入り込み、ロシア領事館付の司祭だったニコライ・カサートキンと出会う。このカサートキンの協力を得て、米船ベルリン号で函館から出国し、上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、慶応元年(1865)7月にボストンに到着する。
 その後、ワイルド・ローヴァー号の船主A.ハーディー夫妻の援助をうけ、マサチューセッツ州アンドーヴァーにあるフィリップス・アカデミーへの入学がかなう。慶応2年(1866)12月、アンドーヴァー神学校付属教会で洗礼を受け、慶応3年(1867)にフィリップス・アカデミーを卒業、明治3年(1870)にアマースト大学を卒業。これは日本人初の学士の学位取得であった。
 この明治3年(1870)日下部太郎も米国ニュージャージー州のラトガース大学から卒業を認められている。日下部は新島より遅れること2年、弘化2年(1845)福井藩士の長男として生まれている。13歳から藩校明道舘で学び、慶応元年(1865)20歳の時、藩命により長崎の幕府直轄の語学所 済美館に留学する。丁度、新島がボストンに着いた頃のことである。慶応2年(1866)4月、幕府は学問や商業目的の海外渡航を解禁する。福井藩主 松平春嶽は、日下部を福井藩初の海外留学生として渡米させることを決め、長崎奉行所から第4号の海外渡航免許状を得る。慶応3年(1867)2月長崎を出発し、5ヶ月間を要して米国ニュージャージー州のニューブランズウィックに到着する。慶応3年(1867)7月のことである。すでに現地には横井小楠の甥である横井左平太と大平の兄弟がいた。幕府が解禁するのを待たず、新島と同じく慶応2年(1866)に密出国し、米国に渡っていた。
 このように、多くの新島襄と同世代の若者が、自らの意志で密出国を試み、あるいはそれより少し遅れて藩命によって渡航していた訳である。
 日下部はラトガース大学付属のグラマースクールで基礎教育を受け、その後すぐにラトガース大の1年生に編入される。もとより福井藩が期待して送り込んだ人物であるので優秀の上、非常に勤勉であった。そのため学年のトップクラスの成績をおさめていた。しかし卒業を目の前に控えた明治3年(1870)4月に肺結核を患い異国の地で亡くなる。大学は日下部に卒業の資格を認定し、その上に成績優秀な学生からなる米国最古の学生友愛会ファイ・ベータ・カッパ(ΦΒΚ)の会員にも推挙している。単に日下部の才能を惜しむだけではなく、それ以上に遠く日本から勉強のために来た若者の非業の死を悼む気持ちが強かったのではないかと思う。またアメリカに到着した日下部を迎えた横井左平太と大平も若くして結核で亡くなっている。異国の地で身を削って勉学を続けることが、現在では想像できないほどの大きなストレスを与えていたのだろう。

画像
新島襄旧邸
画像
新島襄旧邸

 留学のために密出国して新島襄も、初代の駐米公使となった森有礼によって正式な留学生として認可された。明治5年(1872)アメリカ訪問中の岩倉使節団と出会う。木戸孝允は、新島の語学力に評価し、明治5年(1872)4月から翌年1月にかけて個人通訳として使節団に同行させた。このことによりヨーロッパへ渡り、フランス、スイス、ドイツ、ロシアを訪ねることが可能になった。その後使節団の報告書をまとめるためベルリンに約7カ月間滞在した。この報告書は明治政府の教育制度に大きな影響を与え、その後も新島は欧米教育制度調査の委嘱を受け、欧米各国の教育制度の調査を行った。
 明治7年(1874)アンドーヴァー神学校を卒業する。同年10月に開催されたアメリカン・ボード海外伝道部の年次大会で、日本にキリスト教主義大学を設立することを訴え、5000ドルの寄付の約束を得た。そして帰国後の明治8年(1875)11月29日、高松保実子爵より屋敷を借り受け、官許同志社英学校を開校し初代社長に就任した。これは旧主家の板倉氏が京都所司代を務めていたことから公家華族とも広く親交があったことによっている。開校については京都府知事 槇村正直、府顧問 山本覚馬の賛同を得ていた。新島とJ.D.デイヴィスの二人が教員、元良勇次郎、中島力造、上野栄三郎ら八人の生徒が同志社英学校の始まりだった。高松保実子爵邸は上京第22区寺町通丸太町上ル松蔭町18番地にあり、後に新島襄の私邸となった。
 明治21年(1888)11月、新島襄は「同志社大学設立ノ旨意」を全国の主要な雑誌や新聞に掲載し、同志社設立を呼びかけた。そして明治23年(1890)、設立運動のために訪れていた群馬県の前橋で倒れ、静養先の神奈川県大磯の旅館で徳富蘇峰、小崎弘道らに十か条の遺言を託して死去する。享年46歳であった。同志社が大学令に基づき、大学に昇格したのは大正9年(1920)のことであった。 関西地区で初めての昇格であり、同志社大学文学部(神学科、英文学科)、法学部(政治学科、経済学科)、大学院、予科を開校した。新島の死後三十年の時が過ぎていた。

 今回は建物を見ることはできなかった。
 三方にベランダを巡らし白い壁面に鎧戸がつけられた窓のあるコロニアル様式風の外観をしているが、田の字型プランに真壁造りと構造的には日本建築である。明治11年(1978)の竣工である。築地ホテルや海運橋三井組そして旧開智学校も同じ頃の建築である。
 この建物は新島襄が設計したとも伝えられているが、設計者・施工者とも明らかではない。おそらく同志社教員で医師・宣教師でもあったW.テイラーの助言を得ながら造られたものであろうと同志社の公式HPも考えている。昭和60年(1985)京都市指定有形文化財に指定。
 なお新島襄の妻は、同志社英学校を開校した時に協力した京都府顧問 山本覚馬の妹八重である。ここでは詳しくは書けないが、波乱万丈の人生を送った明治の女性である。先日(2009年4月22日)NHKの歴史秘話ヒストリア「明治悪妻伝説 初代“ハンサムウーマン”新島八重の生涯」で紹介されていたのでご覧になった方も多くおられるのではないだろうかと思う。
 八重は戊辰戦争後の明治4年(1871)兄の山本覚馬を頼って上洛している。兄の推薦を得て京都女紅場の権舎長・教道試補となり、ここで茶道に親しむようになったと言われている。先にも紹介したように京都女紅場は明治5年(1872)新英学級及女紅場となり、その後、京都府立京都第一高等女学校を経て京都府立鴨沂高等学校となっている。そして明治33年(1900)九条殿河原町邸から現在の地に移る際に九条殿の正門と茶室を移築している。八重は夫の死後、洋式中心であった生活を和式に戻し、茶道を楽しむことが多かったと言われている。これも偶然の巡り会わせなのだろうか。

画像
新島襄旧邸

「新島襄旧邸」 の地図





新島襄旧邸 のMarker List

No.名称所在地緯度経度
 新島襄旧邸 京都市上京区寺町通丸田町上ル35.0186 135.7676
01  鴨沂高等学校 京都市上京区寺町荒神口下13135.0207 135.768
02  女紅場 京都市上京区35.0174 135.7712
    

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。


Warning: Undefined variable $user_ID in /home/vinformation/vinformation.net/public_html/blog/wp-content/themes/blogpress_tcd10/comments.php on line 160

 

アーカイブ

カレンダー

2009年6月
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930  

最近の投稿

カテゴリー