京都御所
京都御所(きょうとごしょ) 2008/05/13訪問
Overview
This article chronicles a visit to the Kyoto Imperial Palace on May 13, 2008, exploring the historical transition from the original Heian-kyo palace to its current location, which originated as the Tsuchimikado-Higashitodoin-dono. The current structures, reconstructed in 1855, reflect the “Kansei Reconstruction” effort to restore Heian-period classical styles. The author provides a detailed analysis of the “Shishinden” (Main Hall), the “Seiryoden” (Emperor’s private residence), and the “Kogosho,” where the pivotal Kogosho Conference occurred during the Meiji Restoration. By examining the blend of Heian-style aesthetics with Edo-period architectural techniques, the travelogue illuminates the palace’s role as a sacred space for rituals and a practical residence for the Imperial family, preserving centuries of tradition within its earthen walls.
概要
本稿は2008年5月13日、五百年以上にわたり皇居とされた「京都御所」を参観した際の記録です。平安京の当初の内裏から、北朝の光厳天皇が即位した里内裏「土御門東洞院殿」を基盤とする現在の地へと定着した歴史的変遷を詳述しています。江戸時代末期の安政2年(1855年)に再建された現存の殿舎群を中心に、平安の古制を追求した「紫宸殿」や「清涼殿」の復古的意匠と、そこに混在する江戸時代の建築技術(禅宗様の影響など)について鋭く考察。また、儀式の場としての正殿から、書院造へと移行した生活空間の「常御所」、歴史的な小御所会議の舞台となった「小御所」まで、朝廷の権威と日常が同居する壮大な建築空間を多角的に描き出しています。
昼食を終え、再び烏丸丸太町の交差点に戻ったのが13時近かった。仙洞御所の参観と同様、13時20分までに清所門に到着しなければならない。京都御苑の中でも北側なので、地下鉄烏丸線で一駅先の今出川駅で下車して歩くこととした。烏丸通沿いの乾御門より京都御苑に入り御所の清所門を目指す。
元々平安京の皇居は、朝堂院の北東に隣接する内裏であった。内裏の規模は南北三百メートル、東西二百二十メートルと少し小さなものであった。当時の内裏の紫宸殿の回廊の南正面にあった承明門の跡は、現在上京区下立売通浄福寺西入南側のあたりと考えられている。現在の承明門と比較するとおよそ西に千七百メートル、南に四百メートル程度離れた位置にあったこととなる。火事によって内裏が焼失すると、天皇の在所を一時的に他所へ移す必要が生じる。当初は天皇退位後の在所とすることを目的として設けられた後院を仮皇居として使用していた。しかし既に後院を太上天皇が使用している場合は、天皇の外戚の邸宅などを仮皇居としたことがあり、これを里内裏と称した。藤原道長に代表される摂関期では、平安宮内裏が健在であるにもかかわらず里内裏を皇居とする例はほとんど無かったが、白河上皇の院政期以降になると平安宮内裏の有無に関わらず里内裏を皇居とすることが一般化していった。
現在の京都御所の基となるのは、元弘元年(1331)北朝の光厳天皇が即位した里内裏・土御門東洞院殿である。元は平安時代後期の公卿藤原邦綱の邸宅であった。土御門大路(上長者町通)の北、東洞院大路(東洞院通)の東にあり、一町四方の敷地に紫宸殿と清涼殿を兼用するような小規模な里内裏だったと考えられている。現在の京都御所とほぼ一致する場所と考えられている。この里内裏を基に拡充が行われ、明治2年(1869)の東京遷都までの五百年以上の間、皇居とされてきた。
京都御所は江戸時代だけで六回の火災焼失にあい、八回の再建が成されている。天明8年(1788)の大火で焼失すると、老中松平定信が総奉行となり、故実家 裏松固禅らの考証によって紫宸殿を含む多くの殿舎の意匠を平安の古制に復元した。また飛香舎などの当時既に失われていた殿舎の一部の復興を図り寛政2年(1790)に完成した。この殿舎も嘉永7年(1854)に焼失する。現存する建物は江戸末期の安政2年(1855)に寛政期の内裏に従って再建されたものである。
今私たちが見る御所は、南北四百五十メートル、東西二百五十メートルの十一万平方メートルの方形の敷地に築地塀を巡らすことで区切られている。この塀には六つの門が設けられている。南から時計回りに、南面に建礼門、西面に宣秋門、清所門、皇后門の三つの門、北面は朔平門、そして東面には建春門があり、この他にも穴門と呼ばれる小さな入口が十二箇所あけられている。
この築地塀の中に建てられている殿舎は、宮廷で行われる儀式や当時の生活様式が分からないと、なかなか理解することが難しい。その中でも主要な建物は、紫宸殿、清涼殿と小御所、御学問所、常御所となる。
紫宸殿は天皇の私的な在所であった内裏において、天皇の元服や立太子、節会などの儀式が行われた正殿の役割を果たす。平安京が作られた頃、このような天皇の公的な行事は、大内裏の正殿であった大極殿で行われてきた。しかし平安時代中期以降、大極殿が衰亡したことにより、即位の礼や大嘗祭などの重要行事も紫宸殿で行われるようになっていった。そして内裏自体も鎌倉時代に焼失すると再建されることもなくなり、紫宸殿は臨時の皇居である里内裏で再建されるようになった。
建物の平面構成は、中央部に正面九間、側面三間の身舎(もや)があり、これを取り巻くように廂と呼ばれる庇が付け加えられている。そのため建物外観は東西に十一間、南北に五間に見える。さらにその外部に簀子縁が巡らされているため、平屋にもかかわらず巨大な建築物となっている。西和夫氏の「京都で「建築」に出会う 見るおもしろさ、知る楽しみ」(彰国社 2005年刊)の紫宸殿の項(P154)によると、上記寛政年間に行われた平安古制に従った復元は、建物の平面構成と障壁画や建具等についてまでで、建築の構造や外観デザインについては、
平安時代とまったく異なった、江戸時代の技術による江戸時代のデザインである
としている。確かに平安京の大内裏の正庁である朝堂院の大極殿を模したと謂われる平安神宮の社殿とは異なる印象を受ける。建物規模は無視して、この二つの建物を比較すると紫宸殿の方が、屋根、階高、基壇レベルのいずれも高さ方向に大きくなっている。特に屋根は大きく作られ、そのため屋根勾配は急になった。また屋根を高くしたことに伴い、意匠的に庇も深くなっていった。この庇を柱から持ち出すために禅宗建築様式の斗栱や尾垂木を入れてしまったことで、寝殿造にない建築様式を採用せざるを得なくなったのであろう。床にも禅宗建築様式の礎盤を入れて高くしていることを西氏は指摘し、建築史の研究が今ほど進んでいなかった江戸時代に行われた復元の限界を説明している。
確かに私たちが持つ平安時代の建物のイメージは、白砂の南庭越しに眺める紫宸殿のどっしりとしたシルエットである。なかなかこのイメージの修正は難しい。
紫宸殿の前には回廊で区切られた南庭が広がる。南庭へは紫宸殿の正面に作られた十八段の階段で降りることとなる。階段の下りた箇所には東に桜、西に橘が植えられている。左近の桜、右近の橘である。これは紫宸殿から見た左右で名づけられている。天子が南面して東が左、西が右ということは、北を上として描く地図では奇異に感じる右京区、左京区の関係にもつながる。現在の左近の桜は昭和5年(1930)に旧桂宮邸から移植されたものであるが、平安京創建時は梅が植えられていた。康保2年(965)より桜に変わったのは、平安時代の人々の好みが桜に変わっていったのを受けてのことと考えられている。日本人の桜好きはこのころから続いているのかもしれない。右近の橘の方は、安政2年(1855)の改修の四年後に左近の桜とともに植えられている。この時の桜は前述の通り寿命尽きて昭和5年(1930)に植え替えられた。
紫宸殿と南庭を囲む回廊には三つの門がある。南に承明門、そして東西に日華門と月華門。紫宸殿から承明門を通る軸は建礼門に至る。そのため建礼門は天皇と外国からの国賓が御所に入る際に使用される。葵祭は建礼門から始まると言われるが、実際は宣秋門から出た行列は御所の南西角を回り建礼門の前に出てくる訳で、門を潜ることはない。
紫宸殿の内部の床は、拭板敷きとよばれる釘頭が見えない仕上げとなっている。また天井は張られず、そのまま垂木を見せている。構造体は素地のまま使われ、壁は土壁に漆喰塗りということで、抑制された簡素な印象を与える空間に仕上がっている。柱は全て丸柱が使用され、外部の建具には板扉と蔀戸が使われている。蔀戸は建物内側に引き上げられる。
紫宸殿に昇殿すると正面に三十二人の人物を描いた画が見える。身舎と北廂の間に入れられた建具には夏から唐の時代の歴史上の賢者たちが一間に四人、その説明が付けられ描かれている。中央の一間は扉となっており、左に獅子、右に狛犬が対面する形で描かれている。これらは賢聖障子と呼ばれ、弘仁年間(810~824)あるいは寛平年間(889~898)に大和絵を確立させた巨勢金岡が描き、賛を執筆したのは小野道風と伝わる。寛政2年(1790)の再建時に、幕府は図の冠服考を儒学者 柴野邦彦に命じて考証させ描き直している。取り外すことも可能な構造となっているため、嘉永7年(1854)の火災の際にも焼失を免れた賢聖障子は、安政2年(1855)には修復されている。
清涼殿は当初、天皇の日常の住まいとして使われていた。しかし近世に入り常御所が独立して建設されてからは清涼殿も儀式中心の建物に変化していった。紫宸殿のところでも触れたように、寛政年間に行われた平安古制に従った復元により、清涼殿もまた紫宸殿同様の建築様式となった。しかし常御殿の方は天皇が日常の生活を行うため、江戸時代の書院造で建てられている。すでに平安の古制に従った生活を再現することは困難と判断してのことである。このことからも清涼殿の役割は生活から儀式に、そして紫宸殿に近づいたことが分かる。
紫宸殿の身舎が東西方向に九間であったのに対して清涼殿は南北方向に九間となっている。南面する紫宸殿とは異なり、清涼殿は東面する。また清涼殿の東の庭には漢竹と呉竹が植えられているが、寛政度の改修の際に年中行事絵巻などを参考にして復元したものである。
清涼殿の内部構成は、紫宸殿の単一な空間と異なり、いくつかの小さな部屋に区切られている。まず身舎は南側の五間と北側の四間に違う役割が与えられている。
南側五間は昼御座と呼ばれ、天皇の日中の座として使われた。主に叙位を初めとする重要な行事がこの場所で行われた。天皇の休息用の御帳台が置かれ、その東側手前に繧繝縁の二枚重ねの畳の上に茵の敷かれた天皇の座がある。また身舎の東南隅には床を石灰で築き固めた石灰壇と呼ばれる天皇が神々への遥拝を行う場所が設けられている。板敷きではなく、地面(大地)より直接祈りを捧げるという原始的な土着性の名残となっている。
昼御座の南、南廂の部分に殿上間がある。名前のとおり、昇殿が許された殿上人が拝謁する順番を待っていた控えの間である。殿上間の昼御座側の壁には日給簡と呼ばれる将棋の駒のような板が掛けられていた。これには殿上人の名前が三段に書き記され、出勤日時の記した「放ち紙」が張られていた。いわゆる勤務予定表のようなものであった。殿上人は日給簡で定められた日には殿上間に詰める義務があり、病でもない限りたとえ太政官でも各自の省庁に出仕せず、殿上間に詰めている事になっており、出仕しなければ不参として記録される。必ずしも公家たちの優雅な宮廷生活のみが平安時代ではない。現代社会にも通じる厳格な官僚制もまた御所の一側面である。殿上間から内側は覗けない構造となっているが、内側からは殿上間の様子が分かるようになっているのも面白い。
北側四間は夜御殿と呼ばれ、寝室として使われていた。繧繝縁の厚畳二枚を敷き、その上にさらに一枚置いて、その周囲を四隻の大宋屏風を立て並べ、御帳台の略式である帳代を形成した。寛政2年(1790)の復古の際に、毬杖を持った中国風の人物が描かれている。
この他にもそれぞれの役割を持った多くの諸室が清涼殿にはある。建物平面構成を含めて、「mineo」さんのHP雄峯閣 ―書と装飾彫刻のみかた―に詳細に説明(紫宸殿・清涼殿)されているので、そちらを参照するとさらに平安時代に行われていた儀式や生活が身近なものになると思われる。
小御所と御学問所の二つの殿舎は紫宸殿の北東に連なり、御池庭に東面する。小御所は慶応3年(1867)12月9日に徳川慶喜の官職辞職および徳川家領の削封が決定された小御所会議が行われた場所ということで知られている。建物の構成は身舎を中心に四方に廂が巡らされている。身舎は北から上段の間、中段の間、下段の間の三室が並べられている。三室は書院造で畳敷き、廂は板敷きで外部に面した建具は半蔀となっている。蔀の上部は外部に釣り上げ、下部は嵌め込み式となっている。すなわち平安時代の寝殿風の外観を持ち、内部は快適性を求めて書院造となっている。小御所は元々平安京の内裏には存在しなかった施設であり、元服などの儀式や天皇が将軍や諸侯に対面される時に使用されたと考えられている。なお建物は昭和29年(1954)に焼失し昭和33年(1958)に再建されたので、小御所会議が行われた当時の建物ではないことは注意すべき点である。
御学問所は小御所の北に位置する。小御所と御学問所の間には鹿革で作られた鞠を数人で地面に落とさないように蹴って遊ぶ、蹴鞠が行われた庭がある。外部の建具は舞良戸と呼ばれる水平の細い桟(舞良子)を入れた引き違いの板戸が入れられ、その上部には欄間が作られている。内部も主室には床や違棚が作られ、障壁画が描かれるなど書院造となっている。この建物は名前の通り書斎として使われるだけでなく、遊宴など多目的に使われていたようだ。
御学問所から塀を越えて北側の御内庭に入ると御常御殿がある。元々清涼殿の中にあった生活空間が、天正19年(1591)豊臣秀吉が行った天正度造営により、初めて御常御殿として独立した建物となった。こちらも日々の生活を行うための建物であるため、書院造で建てられている。建物は紅白梅を植えた南庭に面して広い縁が作られ、南北に三層構造の部屋となっている。南の一列は表向きのことを行う公的な諸室が並び、西側から下段の間、中段の間そして上段の間と続く。さらに上段の間の東側には三種の神器の内の剣璽を納める「剣璽の間」がある。御常御殿は、平面的には紫宸殿より規模の大きな建物である。
この建物の北側には迎春、御涼所、聴雪、御花御殿などの奥向きの建物がある。さらに北にある皇后御常御殿、若宮御殿、姫宮御殿、大黒戸そして飛香舎などの建物群へは朔平門からの入場となるが、通常の参観時には公開されてはない。
「京都御所」 の地図
京都御所 のMarker List
| No. | 名称 | 所在地 | 緯度 | 経度 |
|---|---|---|---|---|
| 01 | ▼ 京都御所 紫宸殿 | 京都市上京区京都御苑内 | 35.0241 | 135.7621 |
| 02 | 京都御所 清涼殿 | 35.0243 | 135.7617 | |
| 03 | ▼ 京都御所 承明門 | 京都市上京区京都御苑内 | 35.0235 | 135.7621 |
| 04 | ▼ 京都御所 月華門 | 京都市上京区京都御苑内 | 35.0238 | 135.7617 |
| 05 | ▼ 京都御所 日華門 | 京都市上京区京都御苑内 | 35.0238 | 135.7625 |
| 06 | ▼ 京都御所 小御所 | 京都市上京区京都御苑内 | 35.0245 | 135.7625 |
| 07 | ▼ 京都御所 御学問所 | 京都市上京区京都御苑内 | 35.0249 | 135.7625 |
| 08 | ▼ 京都御所 蹴鞠の庭 | 京都市上京区京都御苑内 | 35.0247 | 135.7625 |
| 09 | ▼ 京都御所 御池庭 | 京都市上京区京都御苑内 | 35.0247 | 135.763 |
| 10 | ▼ 京都御所 御常御殿 | 京都市上京区京都御苑内 | 35.0253 | 135.7628 |
| 11 | ▼ 京都御所 御内庭 | 京都市上京区京都御苑内 | 35.0253 | 135.7631 |
| 12 | ▼ 京都御所 建礼門 | 京都市上京区京都御苑内 | 35.0232 | 135.7621 |
| 13 | ▼ 京都御所 宜秋門 | 京都市上京区京都御苑内 | 35.0246 | 135.761 |
| 14 | ▼ 京都御所 清所門 | 京都市上京区京都御苑内 | 35.0258 | 135.761 |
| 15 | ▼ 京都御所 皇后門 | 京都市上京区京都御苑内 | 35.027 | 135.761 |
| 16 | ▼ 京都御所 朔平門 | 京都市上京区京都御苑内 | 35.0272 | 135.7624 |
| 17 | ▼ 京都御苑 猿ヶ辻 | 京都市上京区京都御苑 | 35.0272 | 135.7636 |
| 18 | ▼ 京都御所 建春門 | 京都市上京区京都御苑内 | 35.0236 | 135.7636 |


















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