徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

仙洞御所 その2



仙洞御所(せんとうごしょ)その2 2008/05/13訪問

Overview

In this second part of the Sento Imperial Palace chronicle, the author focuses on the Southern Pond and the dramatic historical backdrop of Retired Emperor Go-Mizunoo’s reign. The narrative explores the Emperor’s persistent resistance against the Tokugawa Shogunate’s increasing control, highlighted by incidents like the Shie (Purple Robe) Incident. Amidst this political tension, the garden served as a cultural stronghold. Key features of the Southern Pond are detailed, including the “Yatsuhashi” (Eight-Plank Bridge) adorned with wisteria, and the striking “Suhama” shoreline, composed of 111,000 smooth stones known as “Issho-seki,” which were gifted from Odawara. The journey concludes at the “Seikatei” teahouse, illustrating how Go-Mizunoo used garden design and poetry to preserve the dignity and aesthetic sovereignty of the Imperial Court during a period of Shogunate dominance.

概要

本稿は、仙洞御所参観記の後半として、南池の景観美と、この庭園に深い愛着を注いだ後水尾上皇の生涯を、江戸幕府との峻烈な政治的対立の歴史とともに紐解く記録です。猪熊事件や紫衣事件、春日局の無位無官での参内といった「朝廷の権威失墜」を狙う幕府の干渉に対し、譲位や落飾をもって抵抗し続けた上皇の不屈の精神を詳述。庭園においては、光琳の屏風絵を彷彿とさせる「八ツ橋」や、小田原から運び込まれた11万1千個の平石が敷き詰められた「洲浜(一升石)」、そして李白の詩に由来する茶亭「醒花亭(せいかてい)」など、人工と自然が高度に融合した「寛永・寛文文化」の精華を、緻密な観察眼で描き出しています。

画像
仙洞御所 南池の洲浜

 仙洞御所の北池に続き南池の鑑賞すべき場所とともに、この庭園を造営させおそらく自分の好みに変更させた後水尾上皇と徳川幕府との関係について書いていく。

画像
仙洞御所 八ツ橋と洲浜
画像
仙洞御所 八ツ橋からもみじ橋を眺める

 後陽成天皇の在位期間は、豊臣政権から江戸幕府に変わろうとしていた時期である。豊臣秀吉は、支配の権威として関白、太閤の位を利用した。そのため天皇を尊重し、その権威を高めることで自らの権威も高まる仕組みを作り出した。そのため朝廷の威信回復に尽力し、天正16年(1588)天皇の聚楽第行幸は盛大に行われた。
 しかし慶長8年(1603)徳川家康が征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開くと情勢に変化が出た。徳川幕府は、京都を離れ東の江戸で権力基盤の形成を行った。室町幕府以降秀吉まで政権を京都あるいは大阪に置き朝廷の距離をなるべく近づけていたのに対して、徳川幕府は一定の距離を朝廷との間にとる政策に変更してきた。そして権威の抑制をはかるため、朝廷に対する干渉を強め、官位の叙任権や元号の改元も幕府が握る事となった。

画像
仙洞御所 鷺の森に現れた鷺

 慶長14年(1609)猪熊事件と呼ばれる宮中女官の密通事件が発生する。これには複数の朝廷の高官が絡んでいたため、公家の乱脈ぶりが白日の下に晒されることとなった。当時 天下無双の美男子と言われていた左近衛少将・猪熊教利は、流行していたかぶき者の一人であった。また女癖の悪さにも定評があり、人妻や宮廷に仕える女官にも手を出し公家衆乱行随一とも称されていた。慶長12年(1607)女官との密通が露顕し、激怒した後陽成天皇から勅勘を蒙り、京都から追放処分とされた。
 一旦は出奔するが、再び都へ戻り公家仲間を誘って女官と不義密通を重ねていた。これが後陽成天皇の寵愛深い広橋局を巻き込んだ大人数の乱行という大事件に発展した。慶長14年(1609)7月後陽成天皇の知るところとなった。激怒した天皇は全員に死罪を命じたが、公家の法には死罪は無かったため、それは叶わなかった。

 慶長10年(1605)に将軍職を辞し駿府城で大御所として幕府の制度作りに勤めていた徳川家康のもとにもこの情報は伝えられた。既に公家に対する捜査権も掌握していたため、京都所司代 板倉勝重とその三男重昌に調査を命じた。しかし調査が進むにつれ、多くの公家が関わった事件であることが明らかになり、全員に断罪を下すことは世情の混乱を招く恐れを懸念する事態になった。後陽成天皇の生母 新上東門院からも寛大な処置を願う歎願が出され、勝重は駿府の家康と諮り、公家および女官達に対する処分を死罪二名、遠島十名、恩免二名という処分を下した。日向に潜伏していた猪熊教利は捕らえられ、京都へ護送され歯科医の兼安備後とともに斬首に処せられた。
 自らの全員死罪ではなく、幕府の処分案に同意せざるを得なくなった後陽成天皇は、これ以降しばしば譲位を口にするようになる。もともと後陽成天皇は秀吉の勧めで第一皇子の良仁親王を跡継ぎとしていた。しかし秀吉が亡くなるとこれを嫌って自らの弟である八条宮智仁親王への譲位を望むようになる。智仁親王は家領の下桂村に別業として桂離宮を造営する人物である。これは豊臣家との距離を置くために行ったとも考えられるが、智仁親王もまた秀吉の猶子となった経歴があるため、幕府は難色を示した。関ヶ原の戦いで家康が勝利した後、良仁親王を仁和寺で出家させ、慶長16年(1611)第三皇子政仁親王に譲位し、仙洞御所へ退く。

画像
仙洞御所 鷺の森 左にもみじ橋 右に雄滝が見えるはずなのだが…

 後水尾天皇は慶長元年(1596)に後陽成天皇の第三皇子として生まれる。父である後陽成天皇の後期は徳川幕府の絶え間ない干渉を受け、朝廷としての権威を失うことが多くあった。この中で新たな天皇となった後水尾天皇も朝廷の権威の復活を願ったが、状況はさらに困難であった。
 即位した二年後の慶長18年(1613)に公家衆法度が制定される。これは先の猪熊事件の再発防止を図るために行われたもので、公家統制に踏み込む第一歩となった。この五か条の内容は、第一条に公家が家々の学問に励むのを勤みとすること、第二条に法令に背く者は流罪となることを示し、第三条に禁裏での勤務励行を、第四条、第五条はかぶき者的な行為の禁止を求めたものであった。ただし運用に関しては五摂家並びに武家伝奏より幕府に対して申し出があった場合に限り、幕府の沙汰として実施に及ぶということに留めておいた。つまり朝廷側から幕府に申し出ない限り効力を発揮しない法律であった。またこの時、紫衣事件の元となる勅許紫衣之法度と大徳寺妙心寺等諸寺入院法度も制定されている。

 慶長20年(1615)5月8日に大阪城が落城し、豊臣氏が滅亡する。同年7月禁中並公家諸法度が二条城において大御所 徳川家康、将軍 秀忠、前関白 二条昭実の連署をもって公布された。これは家康が金地院崇伝に命じて起草させたもので、これにより天皇までを包含する徳川幕府の基本方針を確立した。太古より天子は法を越える存在であるとされ、大宝律令、養老律令をはじめとする公家政権の法制においても天子に関する条文は存在しなかった。これによって初めて法の枠組みの中に入れられてしまったのである。
 元和2年(1616)家康が亡くなるが、幕府と朝廷の関係は変わらない。家康の生前から計画されてきた秀忠の五女和子の入内が秀忠によって受け継がれた。お与津御寮人事件が発覚するなど紆余曲折があったが、元和6年(1620)6月に後水尾天皇の女御として入内する。元和9年(1623)に女一宮興子内親王(後の明正天皇)が誕生する。しかし和子との間に出生した二男五女のうち、二皇子は早世している。寛永3年(1626)には秀忠・家光が上洛し後水尾天皇の二条城行幸が行われる。この時小堀遠州によって行幸御殿と二の丸庭園が造営された。

画像
仙洞御所 南池西岸の洲浜

 この二条城行幸の直後、紫衣事件が発生する。慶長18年(1613)公家衆法度が制定された時、勅許紫衣之法度と大徳寺妙心寺等諸寺入院法度も制定された。さらにその二年後に、禁中並公家諸法度を定め、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。それにも関わらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えてきた。これを知った三代将軍徳川家光は、寛永4年(1627)事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなし、多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対した。また大徳寺住職沢庵宗彭や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。寛永6年(1629)幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。
 この事件とともに、徳川家光の乳母である春日局が無位無官で朝廷に参内するなど天皇の権威を失墜させる江戸幕府の行いに耐えかねた天皇は寛永6年(1629)11月、二女の興子内親王に譲位した。病気の天皇が治療のために灸を据えようとしたところ、「玉体に火傷の痕をつけるなどとんでもない」と廷臣が反対したために退位して治療を受けたと言われているが、天皇が灸治を受けた前例もあり、譲位のための口実であるとされている。

画像
仙洞御所 苑路で見かけた石灯籠
画像
仙洞御所 切石で作られた土佐橋
画像
仙洞御所 南池に浮かぶ葭島と醒花亭

 この時、後水尾院はまだ33歳であった。以後、霊元天皇までの四代の天皇の院政を行う。その後も院と幕府との確執が続く。院政の否定は徳川幕府の基本政策であったが、後水尾院の院政を認めざるを得なかった背景には東福門院(徳川和子)が夫の政治方針に理解を示し、その院政を擁護したことと徳川幕府のから東福門院に対する配慮があったと考えられる。また和子との間に生まれたの興子内親王に譲位することにより、古代より「天皇となった女性は即位後、終生独身を通さなければならない」という不文律を盾に、徳川家の血筋を皇統に入れること防いだ。そして後光明天皇以降の三代の天皇は和子以外の女御や典侍から生まれた皇子を据えた。また慶安4年(1651)後水尾院は突然落飾し法皇となる。その半月前に徳川家光が没していたため、幕府は二重の驚きを隠せなかったようだ。おそらく幕府への当て付けというか、幕府の制限を受けず自由に動けることを示したのであろう。後水尾院はこのように幕府からの多くの干渉を受けたにも関わらず、最後まで抵抗の姿勢を貫き、朝廷の威厳を護ったとも言える。
 延宝8年(1680)85歳の長寿で崩御し、泉涌寺内の月輪陵に葬られた。後水尾院と寛永寛文文化サロンについてはまたいずれの場所で書くこととする。

画像
仙洞御所 醒花亭

 仙洞御所の北庭は自然を表現したものであるとすれば、南池はもう少し人の手をかけた跡を残しながら自然を模した庭を目指したことが分かる。順路では、藤棚に覆われた石橋の八ツ橋を渡り、中島経由で再び東岸に出ることとなる。ここでは八ツ橋を含め意匠の異なる4つの橋と鷺の森の南にある雄滝を見ることが出来る。
八ツ橋については、「京の名庭散歩」の名庭37号 仙洞御所庭園の北池(旧リンク:http://www003.upp.so-net.ne.jp/hata0913/niwa-4.htm)の中で、

     明治28年頃、板橋から石橋にかわり、藤棚もその頃に作られた。

という記述を見かけた。雁行した橋の形状から、伊勢物語の九段その一で在原業平が杜若の歌を詠んだ三河の国八橋に架けられた橋に由来していることが分かる。現在の我々にとって、八ツ橋のイメージの大部分は尾形光琳の八ツ橋図屏風によって出来上がっているのではないだろうか。素朴な板橋ではなく、欄干のある石橋は少し光琳からは離れているようにも思える。そういう意味でも中国風にも見えるこの石橋は藤棚を含めて、他の橋と比較しても明らかに異なった存在であり、この庭の調和性を損なう構成要素に思えてならない。
 鷺の森の南にある幅80センチ、高さ180センチの雄滝はこの仙洞御所の庭園の中で唯一の動きのあるものでもある。今回は残念ながら鬱蒼とした樹木の中、気がつかずに通り過ぎてしまったようだ。先導者の説明を聞きながらついていくだけでなく、事前の調査と注意深い観察が必須であろう。この雄滝は視覚的な鑑賞のために作られたのではなく、人知れず深山に流れる滝の音を聴覚的に楽しむために設えたものであろう。自然は、青々とした樹木を眼のみで感じるのではなく、水の流れる音や鳥のさえずる声、そして蒸せるような新緑の香が合わさって仙洞御所の庭のイメージが出来上がっている。
 中島から東岸に渡る石橋は反橋となっており、左手に切石で作られた土佐橋、右手に池中の葭島越しに醒花亭が見える絶好のポイントとなっている。

画像
仙洞御所 洲浜
画像
仙洞御所 洲浜
画像
仙洞御所 中島と葭島

 そのまま東岸を歩いていくと醒花亭の前に出る。その名は李白の詩から取られたもので、庭園の最も南に位置する茶亭である。すでに現存しないが止々斎、鑑水亭とともに庭園内にあった三つの茶亭の一つである。
 醒花亭から南池に目を移すと、緩やかな曲線で八ツ橋まで続く洲浜が現れる。楕円形の平たい粒のそろった石が十一万一千個並べられていると聞く。この石については、文化14年(1817)光格天皇が恵仁親王(仁孝天皇)に譲位し、上皇となり仙洞御所に入られる時、当時京都所司代であった小田原藩主大久保忠真が、湯河原町吉浜の海岸から、三寸から四寸の長楕円形の石を米一升与えて集め、真綿に包んで二千俵を海路京都まで運び献上されたと伝えられている。このことから一升石の名が付けられたと、かつての「webゆがわら」のHP(旧リンク:http://www.yugawara.or.jp/maku_koen.htm#po )で紹介されていた。

画像
仙洞御所 柿本社 人麻呂 から 火止まろ は少し無理があるような…

 万葉の歌人 柿本人麻呂が祀られてる柿本社の前を通り、再び洲浜に沿って直線に伸びる桜の馬場と呼ばれる道に出る。そのまま道なりに進むと再び又新亭の前に戻る。ここまでおよそ1時間の参観である。

画像
仙洞御所 最後にもう一度北池が見ることができる

「仙洞御所 その2」 の地図





仙洞御所 その2 のMarker List

No.名称所在地緯度経度
01   大宮御所 35.0224 135.765
02   仙洞御所 北池 35.022 135.7661
03   仙洞御所 鷺の森 35.0216 135.7665
04   仙洞御所 もみじ橋 35.0216 135.7662
05   仙洞御所 八ツ橋 35.0212 135.7662
06   仙洞御所 南池 35.0213 135.7664
07   仙洞御所 土佐橋 35.0214 135.7667
08   仙洞御所 中島 35.021 135.7664
09   仙洞御所 葭島 35.0208 135.7665
10   仙洞御所 洲浜 35.0206 135.7662
11   仙洞御所 醒花亭 35.0202 135.7663
12   仙洞御所 柿本社 35.0208 135.7659
13   仙洞御所 又新亭 35.0217 135.7654
    

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。


Warning: Undefined variable $user_ID in /home/vinformation/vinformation.net/public_html/blog/wp-content/themes/blogpress_tcd10/comments.php on line 160

 

アーカイブ

カレンダー

2009年6月
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930  

最近の投稿

カテゴリー