平安神宮
平安神宮(へいあんじんぐう) 2008/05/12訪問
Overview
This article chronicles a visit to Heian Jingu Shrine on May 12, 2008. Built in 1895 to commemorate the 1,100th anniversary of the founding of Heian-kyo (Kyoto), the shrine stands as a symbol of the city’s revitalization during the Meiji era. The author delves into the historical context of its creation, driven by Kyoto’s business leaders, and analyzes the architectural collaboration between Ito Chuta and Kiko Kiyoyoshi. The narrative explores the meticulous reconstruction of the ancient Chodoin (Hall of State) at a five-eighths scale, focusing on the scholarly debates surrounding the “Soryu-ro” and “Byakko-ro” towers. By tracing the transition from an industrial exhibition project to a sacred space, the text provides a profound look at how modern Kyoto honored its imperial past.
概要
本稿は2008年5月12日、京都市左京区に鎮座する「平安神宮(へいあんじんぐう)」を訪れた際の記録です。明治28年(1895)、平安遷都1100年を記念して創建された同神宮の歴史的背景を詳述。明治維新後の京都の衰退を打破しようとした地元の情熱や、建築史家・伊東忠太と宮廷建築家・木子清敬による設計の舞台裏に迫ります。平安京の朝堂院を約8分の5スケールで復元した「大極殿」や、独特な楼閣建築である「蒼龍楼」「白虎楼」の復元を巡る考証、そして時代祭の運営に至るまで、近代京都の再生を象徴する壮大なプロジェクトの全容を考察しています。
満願寺から冷泉通を西に歩き平安神宮の東南角に出る。文子天神の後ろにクレーンが見えているように、このあたりはマンションあるいはホテルが建ち並び、東山側の邸宅、別荘、企業・団体の保養所ということから変わりつつあるようだ。
旧社格は官幣大社、勅祭社。現在は神社本庁の別表神社。
京都にとって平安神宮は新しく造られた神社といっても良いだろう。かつての平安神宮の公式HP(旧リンク:http://www.heianjingu.or.jp/01/0501.html)では、創建の由緒を実に簡潔に記していた。
平安神宮は平安遷都1100年を記念して、明治28年に遷都の
おや神様である第50代桓武天皇をご祭神として創建されました。
続いて書かれていることは、明治維新以降京都の人口は激減し、産業、生活、教育、文化のすべての面で衰退が著しかったということである。南禅寺の水路閣でも触れたように、産業に活性化を与える目的で建設された琵琶湖第一疏水が竣工したのが明治23年(1890)であった。平安神宮創建の建議が明治25年(1892)5月に京都実業協会から提案され、北垣知事に提出された。この建議書には以下の3点が企画されていた。
1 明治27年(1894)に桓武天皇一千百年祭を執行する
2 内国勧業博覧会を誘致する
3 京都市開市記念祭を毎年開催する
この計画が京都実業協会から提案されたことから、京都の産業・経済をどうにかしていかなければならないと京都実業界が考えていたことが良く分かる。もうひとつ注目すべき点は、この時点ではまだ神社を創るとは明確に示されていなかったことである。明治27年に平安京開闢記念祭を行い、あわせて内国勧業博覧会も誘致するということだけであった。延暦12年(793)1月、桓武天皇は臣下を集め、遷都を宣言する。そして延暦13年(794)10月22日に遷都を行い。翌11月8日に「この都を平安京と名付ける」と詔を下している。そのため1100年後が明治27年(1894)にあたるわけである。しかしすぐに、博覧会の開催が翌年の明治28年(1895)になることが分かり、「桓武天皇が延暦14年正月始めて大極殿で朝賀を受けられてより一千百年にあたる明治28年」という位置づけに修正された。
明治26年(1893)に入ると計画は、桓武天皇を奉斎する大極殿の建設、神宮の造営に変わっていく。4月には第4回内国勧業博覧会が京都で開催されることが正式に決定し、有栖川宮熾仁親王を総裁とした平安遷都千百年紀年祭協賛会が設立され、全国規模の募金も開始する。5月には紀念殿(模造大極殿)の工事が、監督長木子清敬、技師伊東忠太を中心として、清水満之助(清水組)によって進められることが決定する。
監督長の木子清敬は弘化元年(1845)山城国(現在の上京区)中立売通宝町の先祖代々、宮中の修理職の棟梁の家に生まれる。すでに明治維新前から宮中に奉仕し、東京遷都後は宮内省に所属し、明治14年(1881)に皇居造営掛、明治20年(1887)に宮内省一等匠手、明治23年(1890)に内匠寮技師、土木課長となる。このように皇室関係の造営工事一筋の木子は明治26年(1893)時点で48歳とかなりの実績を積み上げていたことが想像できる。また明治22年(1889)から工科大学造家学科において日本建築史の授業を受けもっていた。このあたりに技師の伊東忠太との接点があったのだろう。
伊東忠太は慶応3年(1867)現在の山形県米沢市生まれで、木子より22歳若い。明治25年(1892)帝国大学工科大学を卒業し、大学院に進む。いわゆる近代的建築教育を受けた第一世代を明治12年(1879)工部大学校造家学科卒業とすると、伊東は第二世代に属する。辰野金吾、曽禰達蔵、片山東熊ら第一世代は、19世紀の折衷主義建築をいかに日本に取り入れていくかに注力してきた。しかし伊東忠太、長野宇平治、武田五一、中條精一郎などの第二世代以降の建築家も同じプロセスにありながらも、日本における近代建築のあり方を科学的に考える余力があったように思える。
伊東は明治26年(1893)には「法隆寺建築論」を発表している。ここでは一般に良く知られているように、法隆寺の柱の胴張をギリシア建築のエンタシスと結びつけ、ギリシアから日本への様式伝播論を導き出している。このことが後年のシルクロードの流行による喧伝とあいまって、何となく科学的根拠を持ってしまった感がある。伊東がこの論文で行おうとした重要な点は、日本建築を日本の中だけで評価せず、西欧建築の美の規範で再測定しようとしたことにある。批判精神を持って科学的に物事を見ることを実践した訳である。残念ながら推論を実証できるだけの根拠を提出できなかったものの、当時の知見に基づく大胆な仮説であり日本建築をグローバルな文脈で捉え直す画期的な論考ではあった。
ともかく当時26歳の新進気鋭の建築史家であり建築家であった伊東忠太が平安神宮造営の技師に抜擢された。この平安神宮の設計において、木子と伊東の役割は明確にはなっていない。しかし2009年5月に発見された図面(旧リンク:http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2009052100106&genre=M1&area=K00)からは、このプロジェクトにおける伊東の影響の大きさが分かる。琵琶湖疏水の田邊朔郎も含めて、西洋技術を日本に取り込む過程であったこの時代に、明治の近代教育を受けた若手設計者が、大学卒業まもなく国家的なプロジェクトに起用されることが実に多くあった。これが私たちが現在感じる明治維新の冒険的な挑戦とその情熱の素となっている。
明治26年(1893)9月になると会場用地として岡崎公園一帯の田畑の買収が行われるともに、大極殿建設計画を拡張して平安神社とする提案が了承される。すなわち大極殿を拝殿とし、当初の計画にはなかった社殿も造営するように変更された。10月1日に紀念殿が起工され、明治28年(1895)3月8日に竣工、14日に平安神宮新殿祭の執行、翌15日に平安神宮御鎮座祭が挙行された。
大幅な設計変更がありながら、わずか17ヶ月でこれだけのものを造り上げたことは驚愕に値する。最近終了した西本願寺の修復作業などから考えても、かなり短工期だったのではないだろうか。
平安神宮に造営された建物は、平安京の大内裏にあった朝堂院を線長比で約八分の五に縮小して復元したものである。
宮城は、天皇の私的区域である内裏とその周囲の官庁一帯を指し示す用語であり、14世紀以降に宮城全体を大内裏と呼ばれるようになった。大内裏は南北面に三門、東西面に四門の計十二の宮門があった羅城門から続く朱雀大通には朱雀門が設けられその内側が大内裏となる。Wikipediaに掲載されている平安京全体図から、平安京の中心というよりは北側中央を宮城が占めていたことが分かる。また同じくWikipediaに掲載されている平安京大内裏より、内裏、太政官、豊楽院そして朝堂院などの諸施設が存在していたことも分かる。 豊楽院は「ぶらくいん」と読み、平安宮大内裏では朝廷の饗宴に用いられた施設である。新嘗祭、大嘗祭の宴のほか、正月慶賀、節会、射礼、饗応などが行われた。天皇列席の際には高御座が正殿である豊楽殿に置かれた。しかし朝廷の行事が内裏の紫宸殿で行われるようになるに従い、豊楽院の地位は下がり、康平6年(1063)に全焼したのちは再建されることがなかった。
太政官は、律令制における司法・行政・立法を司る最高国家機関を指す。長官は太政大臣であるが、これに次ぐ左大臣と右大臣が長官としての役割を担っていた。祭祀を司る神祇官と明確に分離し、中務省、式部省、民部省、治部省、兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省の八省を統括していた。
朝堂院は古代の都城においては八省院とも呼ばれ、八省の官吏が国事を執務し天子が決裁するための官庁であった。しかし平安京の頃には規模も縮小され朝賀や即位、饗宴など、主に盛典、儀礼に用いられるようになった。豊楽院と同様、その役割が内裏に移り、治承元年(1177)の焼失以降は再建されなかった。
Wikipediaに掲載されている平安京朝堂院模式図からは朝集殿院南門の応天門には翼廊が造られ、その先に2つの楼閣 東に栖鳳楼、西に翔鸞楼があることが分かる。応天門の中には東西の朝集殿があり、その先の十二朝堂の間には会昌門があった。十二朝堂はその字の通り、東西に昌福堂、含章堂、承光堂、明礼堂、延休堂、含嘉堂、顕章堂、延禄堂の8堂がそれぞれ向かい合い、中央南には暉章堂、康楽堂、修式堂、永寧堂の4堂が配置され、計十二の殿舎があった。この十二朝堂の先は、一段敷地が上げられ龍尾壇とよばれていた。この壇上には大極殿が中央にあり、応天門と同様にL字型の翼廊が造られ、その先端に西に白虎楼、東に蒼龍楼が造られた。大極殿の背後には小安殿と朝堂院の北門 昭慶門があり、これで朝堂院の区画は終わっていた。
再び現在の平安神宮に戻る。応天門を入ると左右に額殿と神楽殿があるが、これは昭和15年(1940)に造られたもので創建当時にはなかった。境内の半分から北側は龍尾壇が築かれその壇上に左右に白虎楼と蒼龍楼、中央に大極殿がある。大極殿の背後は神社機能となるので、朝堂院の復元と考えるのはここまでとなる。まず応天門には翼廊と2つの楼閣がない。そして応天門の北側は東西の朝集殿と会昌門、そして十二朝堂の間が完全に省略されていることが分かる。つまり朝堂院の北側と南側を切り貼りした状態とも言える。
大極殿の背後には内拝殿、本殿、そして北側の神苑へつながる後門がある。これは小安殿と昭慶門の構成を継承はしているが、意匠的にも機能的にも異なっている。平安神宮の公式HPには昔の写真(旧リンク:http://www.heianjingu.or.jp/01/0301.html)も掲載されている。明治28年(1895)創建当時の本殿と昭和15年(1940)建造の本殿が異なっていることに気づく。創建当時と比較してより神社色を強めた建築様式なっている。また社がひとつから2つに増えている。創建当時の御祭神は第50代桓武天皇であったが、皇紀2600年を記念して、昭和15年(1940)に平安京最後の天皇である第121代孝明天皇をさらに御祭神に加えている。なお本殿と内拝殿は昭和51年(1976)1月6日放火により焼失している。現在の社は昭和56年(1981)に再建されたものである。
平安京の朝堂院を模し、全体的に縮小、半分は省略して造られた平安神宮であるが、それでも現在の私たちを感動させるに足る規模を持っている。もしこれが同寸で造られていたら現在と全く違う印象になったと思う。
ところで当時大極殿跡と推定された上京区千本通丸太町上る西側の内野児童公園内に「大極殿遺址碑」の記念碑が建てられている。「くみちょー」さんのブログ(旧リンク:http://kata.wablog.com/586.html?y=2008&m=11)によると千本丸太町交差点西北角に、京都市が制作した説明パネルがあり、そこには平安京で行われていた朝賀の儀式が描かれている。朝賀とは、正月元旦に平安宮中央にあった朝堂院の正殿である大極殿に天皇が出御され、皇太子以下文武百官から拝賀を受ける行事で、平安時代はこの場所で行われていた。この大極殿の復元図に見られる白虎楼と蒼龍楼はほぼ平安神宮と同じように描かれている。このような四方に小楼を配した建物を今まで見たことがなかったことから、伊東忠太の全くの創作であると思い込んでいた。後年の祇園閣や築地本願寺を設計した建築家・伊東忠太ではなく、建築史家として平安時代の建築様式を科学的に復元したものであった。
さらに2026年に調べてみると、宮中の年中行事を題材とした平安時代末期の絵巻物・年中行事絵巻の中に四方に小楼を載せた蒼龍楼が描かれていることが分かった。また江戸時代中期に活躍した地図考証家・森幸安が描いた皇城大内裏地図の白虎楼にも「龍尾道ノ西楼ト云 方四間 高八間 上ニ小閣多シ」と記されている。これは年中行事絵巻の描写とも一致する。木子と伊東は、前述の年中行事絵巻、類聚三代格、そして幕末の公家で有職故実家の裏松光世(固禅)の「大内裏図考証」などを参考にしながら白虎楼と蒼龍楼を復元したのであろう。
山田邦和氏の長岡宮と平安宮の翼廊の先端に楼閣を附設する建築様式、すなわち「楼閣附設建築」を考察した論文「桓武朝における楼閣附設建築」を読むと、復元についての問題点が明らかになる。[[ 改行 ] 山田氏は平安宮大極殿の附属楼閣である蒼龍楼・白虎楼の構造について、三つの復元案を提示している。
第一案は「年中行事絵巻」より導き出している。絵巻の原本は江戸時代初期に焼失したが、その直前に制作された精密な模本が残されている。その上で、「この図では梁間二間の複廊の屈曲部を利用しているにもかかわらず、そこに附設された蒼龍楼は一辺三間の構造をとっており、これは建築的にはいかにも不自然である。」と説明している。つまり梁間二間の翼廊に一辺三間の蒼龍楼を接続する場合、翼廊の梁間の長さに対して蒼龍楼の梁間の長さを三分の二にしないと図面的には収まらなくなる。この案を採用すると、翼廊からの律動感が屈曲部の楼閣で突如乱れてしまうという意味である。
第二案は裏松固禅の「大内裏図考証」の二間四面庇(一辺が四間)を採用している。固禅も「年中行事絵巻」を確認した上、「年中行事画所図、蓋後世簡略制矣 」と推定している 。すなわち『年中行事絵巻』に描かれた朝堂院は後三条天皇が延久4年(1072)のものであり、 平安宮朝堂院は焼亡と再建を繰り返すうちに青龍楼、白虎楼も設計変更されたためと考えたようだ。そのため一辺四間の楼閣として復元案を作成している。これならば二間の翼廊の屈曲部に四間の楼閣を設ける場合、外側と内側にそれぞれ一間ずつ持ち出すことになる。つまり屈曲部に”節”のような楼閣建築を設けることで、梁間の律動感を維持しながら楼閣建築の象徴性も得ることができる、建築的な収まりとしては秀でた案である。現在の平安神宮の建築を見る限り木子と伊東はこの固禅の案を採用したことが分かる。
ただし固禅の根拠が個人の推定でしかないことから山田氏は自らの案を第三案として提示している。それは「年中行事絵巻」に従い楼閣建築は一辺三間とし、西に配置された白虎楼の場合、二間の翼廊の屈曲部の内側(西北隅)だけに一間増やしている。これによって東南より白虎楼を眺めると翼廊の梁間長さが維持され、尚且つ固禅案のように楼閣建築が突出することがなくなる。ちなみに梶川敏夫氏の復元図はこの第三の案を採用している。
文化遺産オンラインの平安神宮 白虎楼には「木造、二階建、下層小楼四基付、本瓦葺」とあるので、この建築様式の正式名称となるのであろう。すなわち二重の屋根の下層部に四基の小楼が設けられているという意味のようだ。しかしこのような建築様式は朝堂院の復元以外には現存していない。
毎年10月22日に行われる時代祭は、桓武天皇1100年祭の京都市開市記念祭をという位置づけ始まった。京都御所建礼門前から平安神宮までを練り歩く、時代祭行列は、維新勤皇隊列に始まり、幕末志士列、徳川城使上洛列と続き最後は平安京遷都の時代 延暦の神幸列そして弓箭組列で終わる。これらの行列は全10社の市民組織「平安講社」によって運営されている。当初は500人規模の行列も、現在では明治維新、江戸、安土桃山、室町、吉野、鎌倉、藤原、延暦時代の8つの時代を20の行列で表現し、総勢2000人の市民が参加する行列となっている。なおこの時代祭に使う装束は応天門西側にある時代祭収蔵庫で保管されている。
「平安神宮」 の地図
平安神宮 のMarker List
| No. | 名称 | 所在地 | 緯度 | 経度 |
|---|---|---|---|---|
| 01 | 平安神宮 大鳥居 | 35.0125 | 135.7826 | |
| 02 | 平安神宮 応天門 | 35.0154 | 135.7824 | |
| 03 | 平安神宮 白虎楼 | 35.0162 | 135.7819 | |
| 04 | 平安神宮 蒼龍楼 | 35.0162 | 135.7829 | |
| 05 | ▼ 平安神宮 大極殿 | 京都市左京区岡崎西天王町 | 35.0165 | 135.7824 |
| 06 | 平安神宮 拝殿 | 35.0167 | 135.7824 | |
| 07 | 平安神宮 本殿 | 35.0169 | 135.7824 | |
| 08 | 平安神宮 南神苑 | 35.0162 | 135.7813 | |
| 09 | 平安神宮 西神苑 | 35.0169 | 135.7817 | |
| 10 | 平安神宮 中神苑 | 35.0169 | 135.7831 | |
| 11 | ▼ 平安神宮 神苑 | 京都市左京区岡崎西天王町 | 35.016 | 135.7839 |














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