日野の町並み
日野の町並み(ひのまちなみ) 2008/05/11訪問
Overview
This article concludes the historical excursion of May 11, 2008, with a reflective walk from Hokai-ji and Hino Tanjoin toward Ishida Station on the Kyoto Municipal Subway. Once the stronghold of the Hino clan—a powerful branch of the Northern Fujiwara—this area is celebrated as the birthplace of Shinran Shonin and the final retreat of the hermit-author Kamo no Chomei. The report retraces the historical significance of the Hino lineage, which produced influential political figures and shogunal consorts throughout the Kamakura and Muromachi periods. While documenting surviving stone markers along the old Nara Highway, the author observes the stark reality of modern urbanization, noting how the once-serene “Village of Hino” has largely been replaced by contemporary residential developments, leaving only fragments of its profound historical legacy.
概要
本稿は2008年05月11日に、宇治から伏見へと続く史跡巡りの最終行程として、法界寺・日野誕生院から地下鉄石田駅へと至る「日野の町並み」を歩いた際の記録です。かつては藤原北家日野一族の本拠地であり、親鸞聖人が生を受け、鴨長明が庵を結んだ歴史深い「日野の里」の現状を報告しています。奈良街道との交点に残る古い道標や案内碑を辿りながら、中世政治を動かした日野家の権勢と、本願寺へと繋がる血縁の重層的な歴史を総括しています。一方で、急速な宅地化によって失われつつある往時の面影や、画一的な現代の家並みに飲み込まれた現在の街の姿を、紀行文らしい哀愁を込めた視点で記述しております。
日野誕生院より出て、京都市営地下鉄東西線の石田駅まで歩くことにする。日野誕生院の前には京阪バスの停留所があるが一時間に一、二便を数えるのみにて、歩みを進めるより他にない。もう少し交通の便が良ければ、法界寺を訪れる観光客も増えるのにと思う一方、折角静寂が保たれている境内に観光客が溢れかえるのもという気もする。
法界寺の前を起点としている府道127号日野薬師線を約100メートル北に進むと日野自治会公会堂のある交差点が現れる。この場所には、「右ひのやくし 是より六丁」と「親鸞聖人日野誕生院」の2つの碑と鴨長明方丈石への矢印が設置されている。
この交差点を左に曲がり、さらに府道127号をなごみの里病院の前を通り、川を渡り、10分くらい進むと、府道36号大津宇治線 いわゆる奈良街道にあたる。この交差点の東角にも「親鸞聖人日野誕生院」とともに「乳薬師日野法界寺 日野薬師従是東南四町」の三宅兵衛遺志の碑が置かれている。四町とは約440メートルの距離である。奈良街道から歩いてくる人のために設置された碑なのだろう。その横には運転者用の標示板があり、法界寺 一言寺 醍醐寺の方角が指し示されている。
この交差点を左に曲がると法界寺へのタクシーを乗車した六地蔵に出る。石田駅はあと5分ほど直進することとなる。
日野は法界寺と日野誕生院の項で書き記したように、藤原北家の流れをくむ日野家の領地であった。日野家宗が弘仁13年(822)に薬師如来の小像を祀るために、日野の地に法界寺を建立し、以降一族でこの薬師如来を護ってきた。永承6年(1051年)、6代目当主 日野資業が薬師堂を建立し、法界寺としても本尊は変わらず薬師如来であり、現在も日野薬師と呼ばれ続けている。
鎌倉末期 正中元年(1324)の正中の変、元弘2年(1332)の元弘の乱において後醍醐天皇の倒幕計画に日野資朝や日野俊基が協力した。謀議は露見し捕らえられ、処刑された。しかし元弘の乱が鎌倉幕府を滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武の新政を迎えることとなった。
さらに室町幕府成立後は3代足利義満の日野業子・康子、4代足利義持の日野栄子、6代足利義教の日野宗子・重子姉妹、8代足利義政の日野富子と4代の将軍の御台所を輩出し、これより9代足利義尚の代まで足利将軍家と結縁を続け、権勢を誇ってきた。
また11代日野家当主の日野実光の兄弟にあたる日野有範の長男として親鸞聖人が日野の地に誕生したのは承安3年(1173年)であった。さらに後年親鸞は娘覚信尼を同族庶流の日野広綱に嫁がせているため、本願寺を率いた大谷家は日野家の流れをくむこととなった。このことが日野誕生院の建立につながった。
現在の法界寺から石田駅に至る日野の街並みを見ると宅地化の波に既に飲み込まれてしまったことが分かる。法界寺の周辺あるいは鴨長明方丈石の間はまだ日野の里を思わせる光景が残っているかもしれないが、府道127号が左に曲がる日野自治会公会堂より西側は画一的な現代の家並みに取って代わられ、往時の面影は遠のくばかりであった。





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