南禅寺 天授庵
南禅寺 天授庵(なんぜんじ てんじゅあん) 2008/05/12訪問
Overview
This report describes a visit to Tenju-an, the memorial temple of Nanzen-ji’s founding abbot, Mukan Fumon, on May 12, 2008. Founded in 1337 and later reconstructed by the daimyo Hosokawa Yusai in 1602, the temple features two distinct gardens. The East Garden is a Zen dry landscape garden characterized by striking geometric stone paths set against white sand. In contrast, the South Garden is a lush strolling pond garden reflecting the style of the late Kamakura period. The report explores how the temple’s historical recovery and the artistic influence of the Hosokawa family shaped these unique, serene environments.
概要
本稿は2008年5月12日に南禅寺の開山塔である天授庵を訪問した時の訪問記です。南禅寺開山・無関普門禅師を祀るために暦応3年(1337)に開創された同庵の、波乱に満ちた興亡の歴史を辿ります。応仁の乱による荒廃を経て、慶長7年(1602)に細川幽斎の手によって再興された伽藍と、その意向が色濃く反映された庭園に焦点を当てました。白砂に直線的な敷石が走る枯山水の本堂前庭と、鎌倉末期の面影を留め新緑に包まれた池泉回遊式の書院南庭という、対照的な二つの名園が織りなす静謐な空間について記しています。
南禅寺 南禅院より再び石段を下り水路閣をくぐると法堂の前に出る。正因庵の前を過ぎ、三門の南側に南禅寺 天授庵がある。
亀山上皇は父である後嵯峨上皇が文永元年(1264)に造営した離宮の禅林寺殿を正応4年(1291)に禅寺に改めた。この時、開山に迎えたのは東福寺住持の無関普門禅師(大明国師)である。
無関普門禅師は建暦2年(1212)に信濃国に生まれ、13歳で越後国正円寺において出家する。19歳の時に上野国長楽寺で栄朝禅師から菩薩戒を受け、栄西禅師から受け継がれた禅を学ぶ。関東や北越の講席を遊歴した後、東福寺の円爾禅師に参禅する。その後、建長3年(1251)宋に渡り、弘長元年(1261)の帰国までの約10年間、浄慈寺の断橋妙倫に参禅する。ここにおいて断橋禅師の法を嗣ぎ、禅の深興に達する。帰国後、禅師は再び正円寺に戻り、静かに坐禅三昧の時を過すが、弘安3年(1280)、東福寺円爾禅師が病気であることを知り、既に70歳に達してはいたが上洛する。同年、円爾禅師は遷化し、その後を継いだ第2代住持も数ヶ月で退任したため、東福寺第3代住持に迎えられた。
無関普門禅師は、亀山上皇が開山として迎えた正応4年(1291)12月12日に東福寺龍吟院で遷化されている。翌5年に上皇によって選任された第二世規庵祖圓禅師(南院国師)によって南禅寺の伽藍造営が始められた。無関普門禅師の住持としての期間があまりにも短く、開山としての業績が残されなかった。
暦応2年(1336)虎関師錬禅師が南禅寺第15代住持に就任すると、朝廷に上奏し開山塔建立の勅許を請うた。光厳上皇の勅許を得るとともに、塔を霊光、庵を天授と名付ける勅状を賜る。翌暦応3年(1337)に開山塔の建立がなされ、天授庵が開創した。無関普門禅師の死去から46年の後のことである。
文安4年(1447)に発生した南禅寺大火に類焼し、そのすぐ後に勃発した応仁の乱(応仁元年(1467)~文明9年(1477))の兵火を受け、天授庵はこの後130年間再興がなされないまま荒廃していた。慶長年間(1596~1615)に入ると世情も安定し南禅寺の伽藍の再建も始まった。その中で開山塔天授庵の再興は、当時の南禅寺の住持であった玄圃霊三禅師に一任された。霊三住持は自らの弟子である雲岳霊圭を庵主とし、知友であった細川幽斎に天授庵の再興を懇請した。幽斎はこの申し出を快諾し、慶長7年(1602)に本堂、正門、旧書院を始め諸堂の再建され、天授庵の復興がかなった。
正因庵側に造られた正門は閉ざされ、西側の門を使用する旨が書かれている。2つ目の門から中に入ると正面に大きな庫裏が現れる。庭へは門の左に設けられた中門から入ることとなる。右手に本堂の妻面、左手に山門の屋根を見ながら苔の上に置かれた大きな石のある庭を過ぎると本堂前庭に出る。
天授庵には本堂前庭(東庭)と書院南庭の2つの庭がある。
前庭は枯山水で、正門から本堂へ、本堂から墓所へとつながると思われる二条の敷石が直線状に伸びるのが印象的である。この庭や正門からの石畳は、暦応3年(1337)の創建当時のものであると拝観のしおりには書かれているが、細川幽斎が慶長7年(1602)に本堂を再建した際に庭にもかなり手を入れたように思われる。おそらく正門と本堂の位置関係に変更がなければ現在のように正門から本堂へつながる石畳は存在していたかもしれないが、庭の雰囲気は現在見るものとは異なっていただろう。この美しい石畳の上に上がることはできないが、もし正門側からこの庭を見ると、石畳のすぐ右に植えられた松と白砂の中に真直ぐ伸びる石畳の先に丸い苔地の中に植えられた小ぶりな松が先ず目に入る。次に右手に入母屋造こけら葺屋根の本堂、左手に石組みと刈り込み、そして本堂に負けないボリュームを持ったカエデが現れる。さらにその奥に本堂側に流れていく羊角嶺大日山の山並みが見える。庭の中央に植えられたこの松を目標に歩いていくと石畳は右に曲がり本堂へと導きこまれる。
もう一条の石畳は中央の松の南側から始まり、確認はできなかったが南側にあると思われる墓所へとつながる。これは慶長15年(1610)細川幽斎没後に造られたものだと考えられている。
本堂からこの庭を見るとき、この2条の石畳は大きな役割を果たしていることが分かる。もしこの石畳がなかったとしたら、この庭はやや深すぎる印象を受ける。それを解消するため、白砂の上にいくつかの石が置かれ、植樹も行われたかもしれない。そうなるとこの庭のもつ単純で力強い構成が無くなっていただろう。また幽斎没後に庭が造られたならば、正門から墓所へ続く石畳によって庭が完全に分断されたかもしれない。いずれにしても現在の姿は、天授庵の歴史によって造り出されたものであることだ。
本堂前庭をさらに南に進むと全く趣の異なった書院南庭の池泉が現れる。鎌倉末期から南北朝時代の特色を備えた池泉回遊式庭園をいわれている。拝観のしおりによると、その根拠として下記のような点をあげている。
1 書院側から長大な出島を作り、向い側からやや小さい出島を配し、 これらを巴形に組み合わせることにより東西大小の二池を区切っている点
2 大小の出島を作り池庭の汀の線に多くの変化を見せている点
3 東池を西池より小にしこれになだらかな斜面の堤を設ける点
4 東池滝組付近の石組みに残る手法
さらに東方の築山付近に慶長年間に改造されたと思われる箇所が見受けられることと明治初年に西池に蓬莱島を設け、石橋を架けるということが行われている。
天授庵の書院南庭はこの時期、新緑は美しいが鬱蒼としているため庭の構成を見るのには適していないかもしれない。都心にあっても非常に静謐が保たれた自然を強く感じられる庭となっている。
「南禅寺 天授庵」 の地図
南禅寺 天授庵 のMarker List
| No. | 名称 | 所在地 | 緯度 | 経度 |
|---|---|---|---|---|
| 01 | ▼ 南禅寺 天授庵 | 京都市左京区南禅寺福地町86-8 | 35.0106 | 135.7922 |
| 02 | 南禅寺 天授庵 正門 | 35.0109 | 135.7926 | |
| 03 | 南禅寺 天授庵 本堂前庭 | 35.0107 | 135.7927 | |
| 04 | 南禅寺 天授庵 書院南庭 東池 | 35.0103 | 135.7924 | |
| 05 | 南禅寺 天授庵 書院南庭 西池 | 35.0103 | 135.7922 | |
| 06 | ▼ 南禅寺 三門 | 京都市左京区南禅寺福地町 | 35.0112 | 135.7925 |
| 07 | 南禅寺 勅使門 | 35.0112 | 135.7916 | |
| 07 | 南禅寺 法堂 | 35.0112 | 135.7938 | |
| 08 | ▼ 南禅寺 南禅院 | 京都市左京区南禅寺福地町 | 35.0103 | 135.7938 |
| 09 | ▼ 南禅寺 水路閣 | 京都市左京区南禅寺福地町 | 35.0105 | 135.7938 |






















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