徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

墨染の町並み



墨染の町並み(すみぞめのまちなみ)  2008/05/11訪問

Overview

This report details a walk through the Sumizome district on May 11, 2008, focusing on the site where Isami Kondo, the leader of the Shinsengumi, was shot in 1867. The author traces the historical timeline from the assassination of Ito Kashitaro to the retaliatory ambush by former Goryo-eji members. By analyzing historical records and geographical locations, including the proximity to the Satsuma clan residence, the report explores the mystery of the exact ambush spot. It also includes an updated perspective from 2026, discussing the commemorative monument and the strategic movements of the attackers during that turbulent era.

概要

本稿は2008年5月11日に墨染の町並みを訪問した時の訪問記です。京阪電鉄墨染駅から伏見街道へと歩を進め、新選組局長・近藤勇が狙撃された幕末の動乱の跡を辿ります。伊東甲子太郎暗殺に端を発する復讐劇の舞台を、当時の志士たちの証言や地理的条件から検証し、諸説ある襲撃地点の謎に迫ります。さらに、2026年現在の視点を加え、建立された碑文の内容や薩摩藩邸からの距離、襲撃側の動線から事件の偶発性と緊迫感を考察した記録です。

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墨染 墨染の交差点 左:京 右:伏見 伏見街道はここで曲がる

 墨染に降りた理由は3つある。1つ目は藤森神社を拝観すること。2つ目は伏水街道第四橋の存在を確認すること。そして幕末に新選組 近藤勇が狙撃された地を歩くことにあった。
 京阪電鉄墨染駅に降り、駅舎を出て踏み切りを渡ると北から続く伏見街道に出会う。

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墨染 伏見街道沿いの民家

 近藤勇が狙撃される前後の時間の経過を見てみる。

     慶応3年(1867) 3月20日 伊東甲子太郎一派、新選組を脱退する
                        御陵衛士となり、高台寺党を名のる
               6月15日 新選組 屯所を西本願寺より不動堂村に移す
              10月14日 徳川慶喜 大政奉還する
              11月15日 坂本龍馬・中岡慎太郎 近江屋で暗殺される
              11月18日 新選組 油小路で伊東甲子太郎一派を暗殺する
              12月 7日 海援隊 新選組が警護する紀州の三浦久太郎を襲撃する
              12月16日 新選組 伏見奉行所に陣を置く
              12月18日 近藤勇、墨染で高台寺党の残党に撃たれる
              12月25日 庄内藩 江戸薩摩屋敷焼き討ちする
     慶応4年(1868) 1月 3日 鳥羽・伏見で戊辰戦争が始る

 10月の大政奉還から1月の鳥羽伏見の戦い勃発までの2ヶ月間に私たちが知っている幕末の多くのことが起きていたことが分かる。
 今回の近藤勇の狙撃事件は、油小路での伊東甲子太郎一派の暗殺を受けての事件であるが、いずれ油小路を訪れた時にこの事件について書くつもりなので、ここでは詳細は割愛する。

 慶応3年(1867)11月18日の夕刻、近藤は国事の相談があるとの口実で七条醒ヶ井の妾宅に伊東を招いて酒宴を張り、帰路油小路木津屋橋付近で待ち伏せていた大石鍬次郎らに暗殺させた。その後、油小路七条の辻に伊東の遺骸を放置し、高台寺党に使いを送った。遺骸を引き取りに来た高台寺党は7名。待ち構えていた新選組と斬り合いになり、このうち藤堂平助、服部武雄・毛内有之助の3名が討死、残った4名とその日不在だった者の多くは薩摩藩邸に逃げ込んだ。

 12月18日伏見薩摩屋敷に匿われていた高台寺党の残党は、二条城での軍議の帰りの近藤を見かけ、襲撃を企てた。近藤は乗馬の上、20名余りの護衛がついていた。襲撃側は阿部十郎、内海次郎、加納鷲雄、佐原太郎、篠原泰之進、富山弥兵衛の7名と戦力的にはかなりの差がある。銃による狙撃と、斬撃の二手に分かれて襲撃した。狙撃は成功、近藤の右肩に命中。落馬はしなかったものの右手が利かない上、大量出血のため戦闘不能状態になり、戦線離脱を余儀なくされた。そのまま伏見奉行所まで馬を飛ばした。残された護衛は高台寺党との斬り合いとなり、隊士1名、馬丁1名の死者を出した。
 近藤の右肩の銃創は重く、こののち沖田総司とともに加療のため大阪送りとなり、鳥羽伏見の戦いの指揮は土方がとることとなった。

 さて襲撃はどこで行われたのか?
 護衛についていた島田魁や応援に駆けつけた永倉新八は墨染辺りとしていたので、永く藤森神社の周辺と思われてきた。しかし襲撃側の阿部十郎の証言ではもう少し南、下板橋町あたりで行われたとなっている。現在の丹波橋付近となる。
 また現在の国道24号線上で襲撃が行われたという説も見かける。また当時の伏見街道は墨染のあたりで西に折れ、京町通りにつながる路上で行われたという説もある。もし襲撃が伏見街道で行われたとすると国道24号線では離れているのではないかとも思う。この辺りだと伏見薩摩藩邸からも最短の場所となるため、襲撃後の行動を考えれば絶好の場所となる。もちろん当時の町並みまでは分からないので、ここが襲撃に適していたかは判断できない。
 以上のことより墨染と丹波橋のあたりのどこかで行われ、現在もそれがどこかを確定できないということである。そのため新選組ファンはこの周辺を1キロ近く歩かなければならない。

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墨染 藤森神社近くで見かけた銭湯

 伏水街道第四橋は日没後、深草直違橋1丁目で確認できた。このことについては、伏水街道の橋ですでに書いてあるのでそちらを参照してください。
 もうこれ以上、撮影できる時間でなくなったため、京阪電鉄藤森駅に向い、長かった第2日目が終わった。

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伏水街道第四橋

 ここまでは、2009年5月時点の情報で書いた記事である。ここより2026年4月に加筆する。
 伏見観光協会と(社)伏見納税協会青年部会は2009年12月に京都市伏見区深草越後屋敷町3−6の清和荘の門前に近藤勇遭難の地の碑を建てている。既に伏見街道の項で記したように、この場所は伏見奉行所へ続く京町通を通り過ぎ、さらに西に300m近く進んだ場所である。
 碑文は「この付近 近藤勇遭難の地」と、この場所が正確な狙撃地であるとは断定はしていない。この近傍の何処かで高台寺党残党に近藤勇が襲撃されたという歴史的な事実を解説していると考えられる。ここに碑が建立されたことを聞いた時に感じた違和感は、一般的な距離感以上に広い範囲を”この付近”と称していることである。「近藤は護衛約20名を伴っての帰り道」と副碑に記していることから、阿部十郎(隆明)が明治33年(1900)に史談会で語った内容(史談会速記録 合本15 第090輯 十九)を参照しているように思える。この速記録の中で阿部は、寺町で武具を購入していると、「近藤勇が馬に乗って、四方に二十人ばかり警護を連れまして参りました」と通り過ぎるのを目撃している。「近藤ハ本街道を伏見に帰ります、我々(佐原太郎と内海次郎)ハ間道を通り越しまして伏見の薩州邸」へ先回りして戻り、同志の者を引き連れて襲撃を準備したとある。そしてその場所を「伏見に尾州の屋敷がありまして其の脇へ参りまして、街道が屈曲致して曲がります所へ暫く馳せ付き」と説明している。この尾州の屋敷とは尾張藩の伏見藩邸であり、現在の京都市立伏見板橋小学校の校地にあたる。丁度、薩摩藩邸から瀬川を渡った先に位置する。
 ここで問題となるのは、阿部たちが「尾州の屋敷の脇」から移動した「街道が屈曲」する場所までの距離が示されていない点である。「街道が屈曲」する地が墨染を意味するならば薩摩藩邸からおよそ2000メートル、どんなに急いでも20分以上はかかる。その場所が上板橋付近であれば1000メートル程度、さらに襲撃地点が丹波橋通り上であれば500~800メートルまで近づくこととなる。阿部談話が真実ならば、京の寺町から先回りして薩摩藩邸に戻り、同志を集め襲撃の準備と計画を立案した上で、襲撃地点に先回りして待つことになる。果たして彼らに墨染まで出張るだけの時間的な猶予があったかという疑問が生じる。薩摩藩邸から出撃するならば、最短距離の場所を選択することこそが襲撃成功の可能性を高めることに繋がると考える。
 史談会速記録によれば、襲撃後の阿部十郎は近くの伏見奉行所からの追撃を避けるため、槍鉄砲を持ったまま伏見街道を北上し京都の三条まで逃げ延びたことが分かる。やはり近いとは雖も出撃した伏見薩摩藩邸にそのまま帰還することはかなわなかったようだ。いずれにしても計画性の高い狙撃事件ではなく偶発的に生じた襲撃だったということが良く伝わる。

「墨染の町並み」 の地図





墨染の町並み のMarker List

No.名称所在地緯度経度
  伏見街道 五条
  伏見街道 豊国神社
  伏見街道 七条
  伏見街道 塩小路通
  伏見街道 一橋小学校
  伏見街道 九条
  伏見街道 東福寺北門
  伏見街道 法性寺
  伏見街道 中門
  伏見街道 南門
  伏見街道 田中神社
  伏見街道 伏見稲荷大社
  伏見街道 直違橋11丁目
  伏見街道 名神高速道路
  伏見街道 伏水第四橋
  伏見街道 墨染
  伏見街道 府道35号
  伏見街道 撞木町
  伏見街道 京町10丁目
  伏見街道 新町10丁目
  伏見街道 大手筋通
01  藤森神社 京都市伏見区深草鳥居崎町60934.9513 135.7717
02  伏水街道第四橋 京都市伏見区深草直違橋北1丁目34.9535 135.7712
03  薩摩藩伏見邸跡 京都市伏見区東堺町47234.9377 135.7586
    

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